2012年11月9日金曜日

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
すでに述べたように、強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的ををもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療域での試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考えよう、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間がは、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的を見すえて生きることができなくなるからだ。かつて、失業した鉱山労働者を心理学の立場から集団検診した結果、このゆがんだありようが時間感覚におよぼす影響をさらにくわしく調査しなければ、ということになったことがある。心理学では、この時間感覚を、「内的時間」あるいは「経験的時間」と呼ぶ。

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間がになることだ」

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
強制収容所にいたことのある者はなら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間がをぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間がとしての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

2012年11月8日木曜日

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人はの面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

2012年11月7日水曜日

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
「まっただなか」 にいた者は、完全に客観的な判断を下すには、たぶん距離がなさすぎるだろう。しかしそうだとしても、この経験を身をもって知っているのは彼だけなのだ。もちろん、みずから経験した者の物差しはゆがんでいるかもしれない。いや、まさにゆがんでいるだろう。このことは度外視するわけにはいかない。そこで、いわゆるプライヴェートなことにはできるだけふれないことが、しかし他方、必要な場合には個人的な経験を記述する勇気をふるいおこすことが重要になってくる。なぜなら、このような心理学的探求のほんとうの危険は、それが個人的な調子をおびることではなく、かたよった色合いをおびることにあるからだ。

2012年11月2日金曜日

表出する自分についてー2

いやあ、我ながら自分は何と平凡なのかと失望してた。
どうみても、努力ができていない。日々漫然、創造性なし、がむしゃらでもない。
妙な達観のフリとか、平成を装い、相手とは違うんだと思い込むことによる自我の防衛とか。
 
ああひどい、なんなんだこれ。
環境のせいだ。だからぼくはだめなんだ。
 
自我を守ろうとしても、どんんどん漏れ出る。弱さがにじむ。
自分の表出の片鱗と、他人を比べて辛くなる。
 
ああでも、人と比べなきゃ、馬力が出ない。やはりそうだ。
ちょっと変わったことして、ニッチで優位に立って、くだらない中途半端人間になるくらいなら、必死に努力しろよ、自分。このままでは腐るぞ。