2013年3月24日日曜日

『患者よ,がんと闘うな』を読む.

 著作は2000年12月に出版されている.また,この文庫版の元である単行本は,1996年3月に出版されている.また先日2012年12月に,『医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法』と題した著作も出ている.その他にも著作は多く,「抗がん剤は効かない」論壇の主要な論客である.

 近藤誠氏には,称賛・批判共に多く,彼の主張はがん医療にまつわって大きな議論を巻き起こした.このことについてぼく自身の個人的感想としては,とりあえず議論があることはよいことだと思うので,それについては良かったと思っている.ただし,一連の議論が単なる喧嘩に終わり,プロフェッショナル間のコミュニケーションの断絶を生むのだとしたら,それは残念なことだと思う.しかしこういう,意地の張合いというのは見ていてみっともないなあと思うところではある.どちらかというと,既存の理論を主張している側がまともに反論できていない感はあるんだけど.

 さて,本の目次は以下.
まえがき
第1章 抗がん剤は効かない
第2章 抗がん剤は命を縮める
第3章 手術偏重に異議あり
第4章 苦しまずに死ぬために
第5章 がんを放置したらどうなるか
第6章 放射線治療の功と罪
第7章 現代に生きる七三一部隊
第8章 がん検診を拒否せよ
第9章 早期発見理論のまやかし
第10章 患者よ、がんと闘うな
あとがき
うーん,各章の見出しが煽りすぎなんじゃないか.内容としては,まだまともだと思います.たとえば,
出版するのは良いのだけど・・・:近藤誠医師へお願い - 新・眠らない医者の人生探求劇場・・・夢果たすまで(参照)
上記の記事に記されているような,あらゆる抗がん剤が無効である,と近藤氏が主張しているかのような話は,著作を読めばそれが違うことがわかる.血液腫瘍など一部のがんは,抗がん剤の効果があることを近藤氏も認めている.ただし,目次にはやはり「抗がん剤は効かない」とあるので,誤解を生む.これはちょっと煽りすぎである.じっさいに著書を読むと,近藤氏の話はかなり感情論的である.怒りはよく伝わるのだが,あくまで科学的に議論しなければ意味がない.

 ここで,「科学的に議論」とはどういうことかが重要になってくる.科学の定義は,科学哲学における大きなテーマであり,定まったものはない.ここではむしろ,科学性の基準を考えるよりも,「これは科学的に考えることができていない」という形で反論を加えることにし,どのような改善が必要かを簡単に示してみよう.
 第1〜3章の冒頭を中心に,あるケースを紹介し,これを根拠に抗がん剤,あるいは手術が治療として妥当でないという主張をしている.このような「症例報告」は,医学という科学においては根拠としてあまり重要視されない.たとえば,がん診療ガイドラインには以下のようにまとめている.(参照)
症例報告,あるいはケースシリーズ(同様の疾患,あるいは同様の経過をとった患者の一連の報告)は,いずれもエビデンスのレベルとしてはVと分類される.このようなデータは,個人差やランダムなばらつきなど,バイアスを防ぐための手段をとることができない.このような内的妥当性の問題だけでなく,外的妥当性(この結果を他の施設,他の患者に適応できるか)についても問題が残ることになる.ゆえに,このようなデータを元に,抗がん剤診療を批判することは妥当でないのである.
 なお,この「エビデンスのレベル」という尺度が全てではないということは留意すべきである.システマティック・レビュー,あるいはRCT(ランダム化比較試験,あるいは本書では,くじ引き試験)が全てではない.倫理上,技術的,あるいは経済的な問題などで上位の試験が不可能であるシチュエーションは多々ある.一方で,医学という領域の特性上,喫緊にその病気に直面している人がいる,あるいは社会的にその疾病が問題になっている,という現状がある.こういう状況にあって,上位のエビデンスのみにこだわってデータや解析が提出されるのが遅くなることは避けるべきである.観察研究であっても研究デザインが適切であれば,妥当な結論を導くことができる.「エビデンスレベルにこだわりすぎる」ことは,避けなければならない.

 次に,問題だと感じたのは以下のような記述である.
理論的には,がんの性質は臓器によって大きく異ならないはずですから,これまでの議論の大筋はすべての臓器のがんに当てはまるはずです.しかし,それぞれの臓器の機能や,臓器が存在する場所との関係で,個別に考えなければならないこともあります.(p. 133)
これは,端的に間違っていると思われる.近藤氏は放射線科医であり,主な診療領域は乳癌治療のようだが,乳癌の臨床像と,胃癌のそれは明らかに違うだろう.確かに,「がんはみな,異常な増殖能を持ち,転移が問題となる」という原則は共有しているだろうが,そのような病理的なメカニズムではなく,臨床像については,明らかな違いがあるのである.乳癌は転移が早く,不良な転帰をたどることが多いがん種である.このロジックを過剰に敷衍すれば,治療的介入,特に手術や抗がん剤治療が有効である可能性のあるがん種をアンダートリアージすることに繋がりかねない.

 最後に,早期発見早期治療の話について.これについては,政策屋もかなり後ろめたいところがあるようである(聞いた話に過ぎないが).がん検診については,有効性が言われているものもあるが,諸外国においてもどこまでやるかについての合意は少ないようである.子宮頸癌あたりはエビデンスがあったように思うけど,また勉強しておきます.少なくとも,肺癌検診や前立腺癌検診におけるPSAの意義などには,疑義が提出されているのが現状である.このあたりについては,大規模な研究がなされるべきであろう.政治的に,検診を撤回するのが難しいにしても,検診事業の評価として,どのようなベネフィットがあるかの調査はかならず行われるべきである.

 余談的にひとつ,追加で指摘すると,陰謀論はやめようよ,と思うところである.検診や過剰な治療で,「医師や製薬企業が暴利をあげている」という話は,根拠に欠いた憶測でしかない.そう思う気持ちはわかる.ぼく自身,医師という仕事を本当にメシのタネとしか考えていないような人に会う機会があり,こういう人もいるのだと忸怩たる思いを抱いたこともある.近藤氏のこれまでの活動(乳房切除にかんして,外科医との対話など)を鑑みれば,怒りを抱く気持ちはわかるのであるが,これはプロとして腹の中に置いておくべきものであって,著書に述べるまでもないのではないかと思うところである.


 全体として,重要な指摘も少なくない. 米国や欧州のガイドラインと異なる診療を行っている施設もあると聞くし,政策的な未熟さ,科学的根拠への洞察も甘いところがある.このような現状に一石を投じるにあたって,恨みを述べた本を書くのではなく,近藤氏なりの科学論文を公開して欲しいと思った.新しい著作,『医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法』においては,その著作の性質もあってか,科学的とはおよそ言えないような展開であった.近藤氏の考え方を学ぶには,最近の著作よりは今回の『患者よ,がんと闘うな』を読む方がよいだろう.一般向けの本を書こうとしたら,「科学性」を担保するための内容がまず,削除されている印象だからである.

2013年3月19日火曜日

107回 医師国家試験の結果.

 出ました.
 合格してました.

 実家にいるので飲み会などには参加しなかった.親と話をして,師匠の教授,准教授に連絡をし,という感じ.Facebookで所属病院をこぞって登録していたが,まあねえって感じであった.有名病院の人ばかりであった.
 ソーシャルだなあと感じる春である.

 テレビで,「セカンドオピニオンSP」とかいうのをやっている.
 診断というのは難しいんだろうと思う.国試でもそうだったが,前医の誤診というものはよくあるもののはずである.必要なワークアップというものはあるにせよ,全体としては「後医は名医」だと思う.こういう事実,あるいは一種のバイアスを無視して,前医の誤診を批判するのもなあと思う.
 まあ,患者はそこまで考える必要もないのかもしれないけれど,やりすぎは嫌ねと思ってみてた.

 さて,医者として働くことがかなり確定した.同期のメーリスも,できた.
 やるべきこと,やれるだけのこと,せいいっぱいやろう.

2013年3月7日木曜日

アドバイスかあ.

 平穏な日々だが,刻一刻と引っ越しの日が近付く.今日はかなりのゴミを出したが,古い予備校時代の成績表やスケジュール帳なんかが出てきて,ああこんな日々もあったなあと思う.予備校に行ったことは客観的に言えばよいことだったし,人生が安定するためにも重要な期間だったように思われる.一方で,ぼくという人間が,ああいう受験勉強的な営みに対してコンプレックスを抱くことを,決定付けたような時期のようにも思う.まあ,今となってはどうでもいいんだけど.いやそう思い込んで,やり過ごしているけれど.

 さて,後輩へのアドバイスなんてのを,同級生がやっていた.SNSで.
 こう,キラキラしたことだけをアドバイスするというのは,楽でいいよなあなんて暗いことを思っていた.明るく生きにゃいかんなあ.
 余談はともかく,じっさいのところ,明るい話はアドバイスとしては効果があるんだろう.無闇に現実的なことを言うより,夢を語る方が人を魅くのは一般論として正しいだろう.一方で,当然のことながら「先輩だからこそ語れる現実的な話」というのにも一定の効果はありそうなんだけど,どうなんでしょう.当然,ちゃんと明るくオチはつけるんだけど.

 自分のメッセージとしては,「考えること,自由に生きること」を思っていた.弁当先生の著作とだだ被りするんじゃないかなんて,ちょっと自惚れつつも思うのだけど.
 医学部というところは,まさに実学をやるための場所といっても過言でなく,教養というものが殆ど省みられない.大学なので,所定の教養科目を修めることにはなっているんだけど,教養というものが何なのかということを考える機会は殆どないといっていい.
 そのあと,まずまず大量の暗記をやって,実習をやって,卒業試験・国家試験を受けて,6年は終了.
 だいたい,正味4年くらいで医学部のコンテンツ自体はさらうことができて,6年間っているのかなあというところではある.

 教養がない,というととても抽象的なので,語弊を恐れずもう少し,問題をspecifyして言うと,

  • (世の中を回している)文系知がない.
  • とはいえ,理系とはいえ,科学をやらない.

ということに集約されそう.文系知というのもまあ適当に言ってて,法学なり経済学なり文学なりをやるか,リベラルアーツを普通にやるかというところをイメージしているけれど.
 理系の分野としての医学部において,2つめの方が重くて,医学はもちろん科学の一分野なのだけど,そういう意識を形成する場がないというか.医学生が想像する科学というと恐らく,高校物理や高校化学でやるような,20世紀以前の自然科学の内容をイメージしているのではないか.
 医学は,もちろん古典・近代的な科学観に立脚してやれる部分もある.一方で,昨今重要性がいわれている「臨床試験」を考えたりする場合,疫学理論,統計学,確率論を利用した考え方でもって,取り組まなければならない.また,予防医学なんかを考えるときも,同様である.ヒトという複雑系,また個人差をもつ個体を対象とした実践は,演繹的な思考ではどうにもならなくて,もっと別なところに論理的基盤を置く必要がある.
 「医学は進歩しました」とよく言うけれど,かつてのように「菌が原因だから,抗菌薬を使おう」みたいな発想で済むような,"古典的な"医学から,「数千人を対象にした臨床試験で,どちらがどれくらい寿命延長効果がある,またQOLやその他の指標に効果がある」などといった,きわめて統計的な研究へと変貌しつつある.

 また,さらに言えば,一般の人々についても,そういった医学の姿を伝える必要があるように思う.卑近な例でいえば,たとえば喫煙のリスクの説明(リスクというのは,統計学的な概念である)や,予防接種とどう付き合うか(拒絶する自由はあるけど,リスク/ベネフィットをうまく説明する必要がある)などといった領域において,科学をどうコミュニケートするかという実践の問題もある.

 科学をまなぶということは,特にアドバイスとしたいなあと思うところである.ただ,どうやってと問われると結構難しいんだけれどね.

2013年3月5日火曜日

医師の偏在を考える

 元ネタはYosyan先生の有名なブログから.

現研修医制度による医師偏在の原因 - 新小児科医のつぶやき (参照)
 当該エントリは,
研修医制度は2003年度卒業生に対し導入され2004年度から始まっています。2012年度時点で9年間が経過しています。現研修医制度についての評価は様々ですが、悪い方の評価として医師の偏在を促進したと言うのがあります。良く書き立てられる大都市部への医師の偏在です。
として,2004年度から始まった現臨床研修制度の前後で,医師の偏在がどのように変化したのかをみるものである.
 偏在をみる指標として,所与の期間(当該エントリにおいては,旧研修医時代:1994年度~2002年度,現研修医時代:2002年度~2010年度としている)における医師の増加人数に関して,以下のような指標を用いている.

 人口加重平均医師増加数 = (所与の期間における全国の医師増加数) × (県人口/全国人口)

この人口加重平均医師増加数が,「その県の人口規模に比して,全体の医師増加数からみて平等な医師増加数」をあらわす.実際の医師増加数から,この加重平均を引くことにより「期待増加数からの差分」がわかるというわけだ.結果はYosyan先生のブログを見ていただくとして,こちらでも追試的に計算をしてみたところ,若干の誤差があったものの同様の結果を得た.旧研修医時代についてはこちらでは計算をしなかった.以下のようなグラフを描くことができる.

差分.縦軸の単位は 人 である.
また,当然のことながら東京都の都市規模(人口)は他県の比較にならない程大きいことが自明なので,念のためこの差分値を人口で除したものも以下に掲載する.
差分を各都道府県の人口で除した.相対差分といえるだろうか.

 さて,この結果からどういう分析が可能かというと,Yosyan先生の元エントリにもある程度述べられているが,以下のようなものがあろう.
  • 東京都への医師の流入規模(絶対数)は,神奈川県(全国2位)のそれを遥かに越え,4倍ほどもある.
  • 東京都への流入によるものと思われる,その他の地域での医師の不足(差分値マイナス)が著しい.
  • 相対差分をみると,沖縄県での増加も著しいことがわかる.
 このデータのみでは,あまりに簡単なデータでしかないということもあり,上記のようなことが言える程度であろう.とはいえ,ひとつめの東京都への集中が相当数あり(これは,絶対数をみるべきなのだが),明らかにこれによるものと思われる全国規模での差分値マイナスがあることは特筆に価するだろう.これまで「大都市への集中」と言われていたものが,実は「東京への集中」と言っても過言でないといえるからだ.
 さらに,以下のようなことが付言されている.
しっかし東京が相手となると、これに対抗する魅力を作り出すのは実際のところ不可能でしょう。そうなれば、対応策は東京が溢れ出すのを待つしかないになります。神奈川はその恩恵を幾分は受け始めていると言ったところでしょうか。ただ確かrijin様の試算では、この東京でも近い将来医師不足が起こると予測されていました。そうなると東京の吸引力は私の寿命単位では無尽蔵になりますから、打つ手はないかもしれません。
医師の移動を,「不足の有無」という観点から考えれば, 東京都は今後急速に高齢化していくことが予測されている.例えば以下のような記事がある.

大都市 医療クライシス ①高齢者の急増で病院は・・・ - NHK ONLINE (参照)

高齢患者の増加予測です。
2011年から2035年にかけて、東京では18万人、神奈川では11万人、埼玉で8万8千人増加するなど。
1都3県で合計およそ44万人、患者が急増することが分かりました。
患者が特に増えるのは、大規模な団地やベッドタウンの近くにある病院です。
高度成長期に移り住んできた団塊世代が、一気に高齢化していくためです。
 このように見れば,東京都こそ医師が不足していくとも言え,そうなれば東京都の吸収力は他の地方に比べれば無尽蔵に膨れ上がるともいえる.実際,地方では限界集落等の問題点が依然あるが,高齢化としては一巡しているような印象も受ける.こういった状況で,医師という限られたリソースをどう配分するかについて議論がある.

 以上のようなファクトに基づいて検討すると,まずマクロの観点からすれば,都市部の医師不足というのは事実あるだろうから,医師の配分が必要というのは恐らく事実である.一方で,たとえ人口の少ない地域であれ,医療サービスは社会的インフラという面をもつわけだから,そのような地域を切り捨てることは社会的道義に反することである.
 また,ミクロの観点,すなわち若手の医師がどのような思考によって,大都市を選ぶかを考えてみる必要もある.ここで示唆的なのは,上記グラフにおける沖縄県の伸びである.絶対数では小さいが,人口比(相対差分)でみれば東京都に匹敵する程の医師を集めている.これは恐らく,沖縄県の人気研修病院の効果があるのではないか.ゆえに,医師の行動決定原則として,大都市志向というのもあるだろうが,同時に「よりよい研修病院」を求めている姿も垣間見える.
 ここからは憶測になるが,実際のところ「地元で研修したいが,いいと思える病院がなくて」とか「経験を積むために都会に行くけれど,ゆくゆくは地元に戻りたい(が,戻るべき病院があるのか不安)」などと言った声を少なからず聞くのである.また,各自のキャリアパスを描くにあたって,「大学院進学をするなら,母校に帰ることもやむなし」としている者も少なくなかった(これは,たとえば新設医学部などでは,厳しいかもしれないが).肌で感じるところとしては,大都市で一生やっていく,という程安直な医学生は,それほど多くないのではないか.本当に憶測だが,真面目で正義感のある学生もかなり多いと感じるので,地域医療の将来が真っ暗,というわけではないのではないか.
 これらの憶測から,ミクロ的観点に立てば,「やむなく都市部を選んでいる」という若手が多いのではないかと考える.

 このような現状への処方箋としては,マクロ的手段では,「地元に帰りたい」とする若手を応援しなければならないだろう.それはとりも直さず,地域の病院を改善することに尽きる.難しい問題だが,大学医学部と行政セクタの連携なども望まれるところであろう.たとえば症例の経験を増やすために,医療施設の統廃合や,がんセンターなどの集約的な施設を設けるなどの対策が必要だろうし,地域,医学部の枠を越えた連携が必要だろう.

 とはいえ,このような打開策は,決まって聞き覚えのあるような,新奇性のないものばかりである.自分で書いて残念になった.

 ぶっちゃけた話,若手においては,ベテラン勢のご機嫌取りではなく,自分で自分にとっていい病院を作るというのをミッションに掲げるとよいのではないか.自由はむしろ,若い側にあることだし,教授に媚びを売らずとも,自分でやっていけるのではないか.

 この問題は,まさに我々若手世代に振りかかろうとしているものである.ベテランの方々の中にも真面目に考えて下さる人もあろうが,本当に危機感を覚えるのは,私たち自身である.当事者でない者に変革を求めるよりも,まずは自分からというつもりでやっていこうと思う.

2013年3月3日日曜日

Untitled/quoted

A Theory of Justice, John Rawls, 1971

Justice is the first virtue of social institutions, as truth is of systems of thought.

2013年3月2日土曜日

‘Awash in False Findings’ Is most scientific research factually distorted?


「間違いだらけ」ほとんどの科学研究は事実上歪められている?
Newsweek,Feb 22, 2013.(参照).

 全くの私見だけれど,もうほんと,scientific revolutionなるものが起こっているんじゃないかと思う.特に医学研究の発達は目覚ましく,それは今日的な,社会的な問題であるということ,また人間の経済活動として,「カネになる」領域であることもある.かつてはそれが,武器開発の技術だったのだろう.原子力や,量子力学.いま,医学が爆発的に進歩している.あるいは,"normal science"から一気に開花している段階,科学の危機の状態なのかもしれない.確率論,統計学に立脚した帰納のやり方,ロジックの構築.こうした新しい科学の概念の形成に伴って,現役の科学者はその方法論レベルで混乱しているのだろう.
 こうした新しい科学の潮流の中で,さまざまな科学研究の質が危機的な状況になっていること,統計学的手法が誤用され重大なバイアスが放置されていることを指摘した記事である.一方で,それらへの対策については非常に弱いのが現状である.まさに科学が大きく変貌しようという時機なのではないかと感じる.


 Daniele Fanelli氏という人が,Nature誌に以下のようなことを書いたらしい.
“an epidemic of false, biased, and falsified findings” where “only the most egregious cases of misconduct are discovered and punished.”「間違っていて,バイアスがかかっていて,改竄された発見の蔓延」であり,「それらの不正のうち,一番とんでもないものだけが発見され,罰せられる」
Fanelli氏はエディンバラ大学で,どうしてこれほどまでに多くの科学研究が間違いであると判明したのかを解明する研究に従事している.

 科学研究が正しくないねというとき,古典的というかまあぜんぜん古典的でもなく未だにそう信じられてるところがあるけど,たとえば医薬品研究において,製薬企業なんかが研究をさせるとバイアスの原因になりますとか,悪い科学者が意図的に,用意周到に不正な研究結果を発表したんだとか,そういう事例を考える.
For a long time the focus has either been on industry funding as a source of bias, particularly in drug research, or on those who deliberately commit fraud, such as the spectacular case of Diederik Stapel, a Dutch social psychologist who was found to have fabricated at least 55 research papers over 20 years.
もちろんそういう研究はダメなのは事実だけれど,今日,これほどまでにでたらめな研究は,バイオメディカル分野が多く,またその内容は,研究者にとって不都合なデータを無視したり,重要な統計学的手法を誤ったりすることに起因すると分析している.スタンフォード大学の,医学数学が専門のJohn Ioannidis氏も,出版されている殆どの研究は間違いであるとして,統計学的に手厳しく攻撃した論文を2005年に出版している.
Fanelli氏は以下のように言う.
“There’s little question that the [scientific] literature is awash in false findings—findings that if you try to replicate you’ll probably never succeed or at least find them to be different from what was initially said,” says Fanelli. “But people don’t appreciate that this is not because scientists are manipulating these results, consciously or unconsciously; it’s largely because we have a system that favors statistical flukes instead of replicable findings.”
「(科学)文献が間違いの結果だらけであること,すなわち,仮に反復実験をしようとしても決して成功しないか,あるいはもともと言われていたのと全く別の結果に行き着くもの,であることはほとんど疑いようがない.」
「しかし,科学者が意識的にせよ無意識的にせよ,これらの結果を操作しているからではないということは,よく知られていないのである.実のところ,反復・引用可能な発見より,統計学的なまぐれ当たりの方を採用してしまうシステムを採っているためにこのような事態になるのである.」

 このような実情を受け,Fanelli氏は以下のような提言をする.
This is why, he says, we need to extend the idea of academic misconduct (currently limited to fabrication, falsification, or plagiarism) to “distorted reporting”—the failure to communicate all the information someone would need to validate your findings.
だから我々は,アカデミックな不正行為(現時点では,偽造,改竄,剽窃に限られるが)の概念を押し広げる必要があり,「歪曲報告」すなわち,その結果を実証するのに他人が必要な全ての情報について,コミュニケーションに失敗したもの,という概念に変える必要がある.
こういった中で,特に影響の大きなバイアスとして挙げられているのが,アカデミックなジャーナルが,ポジティブな結果を出した研究のみをパブリッシュする傾向があるというもの.出版バイアスとよく呼ばれるもので,疫学領域ではお馴染ではある.なかなか逃れにくいバイアスではあるが,これを克服するための策も徐々にとられつつあるらしい.効果がないとした論文にも目をかけるとか,科学的方法論として,優秀なものに高い評価をつけるとか.

 最後に,Fanelliは以下のように言っている.
“We need a major cultural change,” says Fanelli. “But when you think that, even 20 years ago, these issues were practically never discussed, I think we’re making considerable progress.”
「我々は,大きなカルチャーの変化を遂げる必要がある.」
「しかし20年前のことを考えれば,これらの問題は実質全く議論されていなかったわけで,我々は大きな進歩を遂げているのだと考えることもできるだろう.」

2013年3月1日金曜日

『科学哲学』を読む.


科学哲学,ドミニック・ルクール,文庫クセジュ,2005

 科哲(科学哲学の略,かてつ)を追い掛けて早何年か,まだまだその実態はわからず勉強中.
著者,ドミニック・ルクールは仏人の科哲研究者.以下Wikipediaより(参照).
 ドミニック・ルクール(1944年2月5日-)は、フランスの哲学者・パリ第七大学教授。専門は科学哲学・科学史。パリで生まれ、1965年に高等師範学校卒業、1966年に哲学の教授資格取得、1980年に文学博士取得。1989年にパリ第七大学教授物理学部教授に就任後、1986年から1988年まで国立通信教育センターの所長を務めるなど幅広く活躍。フランス流科学哲学(エピステモロジー)の嫡流をくむ人物。レジオン・ドヌール勲章シュヴェリエ章受賞。彼が監修したDictionnaire d’histoire et philosophie des sciences, sous la direction de D. Lecourt (1999, 4e réed. Quadrige/PUF, Paris, 2006)は定評がある。
このとおり,フランス流の科哲研究者ということで,じつは初めて知るようなことも結構あった.(意図したわけではないが)米英の科哲を中心に勉強していたようだったので,それはそれで興味深いものがあった.これまで一応,ひととおりのことは勉強してきたはずだが,こういったわけで今回の読書は結構初心者のような気持ちで取り組んだところがある.
科学史の通史と,最後にフランス科学哲学についての話という内容.面白いなあと思ったのが,

  • マッハまでと,マッハのあと
  • ヒューム・ポパー周辺
  • クーン周辺
  • 仏の科哲

あたり.どれもズッシリでぜんぜんまとまらず,つまり理解が追い付いていないんだろうなあ.

マッハまでと,マッハのあと

まあ別にマッハで区切ることもないんだけれど,マッハの話は勉強になったのでここで取り上げてみる.
 もともと科学哲学の黎明として,オーギュスト・コントの最初のテーゼがある.「偉大な基本法則」,すなわち「三段階の法則」である.われわれの認識の一々の枝が次から次へと3つの異なる理論形態を経過していくというもので,まず神学あるいは虚構の段階,ついで形而上学あるいは抽象の段階,最後に科学あるいは実証の段階である.2段階めの「形而上学あるいは抽象」とは,精神が超自然的能動者を抽象的な力,つまり,最後には自然という観念のもとに集束するというもの.これは,神学における神が,自然に変わっただけで本質的には大差ないと言われている.
 2番目のコントのテーゼは,合理的予測が実証的精神の主要な性格を成す,というもの.すなわち帰納の重要性を説いたわけだ.そして3番目のテーゼ,科学とは,「人間の自然に対する行為の真の合理的基礎を与えるはずのもの」である.
 一連のコント哲学において重要なのは,存在論からの解放であり,反形而上学的テーゼである.こうした反形而上学的テーゼが推し進められて,「実証主義」という考え方が紡がれてくる.

 それから,エルンスト・マッハ.
 その著作で,古典力学(ガリレイ,デカルト,ヨハネス・ケプラー,ニュートンなどによる)の創設に立ち返って,「機械論神話」がどのように形成されてきたかを示す.これは,古代宗教の「古代神話」のアナロジーでもある.じっさいのところ,古典力学の創設のテクストが忘れ去られたまま,その当時の科学が進歩していったからこその「神話」なのであるが.その内容は,力学に「物理学の他のあらゆる分野の基礎的土台」を築かせようとする先入見である.実際はそれが「意図的にあるいは無理やり作られた抽象」でしかないのである.
また同時にマッハは,科学研究における自分の着想について,自身を実証主義者あるいはありきたりな経験論者だと考えている者に対しても以下のように言う.
「科学者の大部分は,科学研究における方法にみずから携わっておきながら,帰納をその主要な方法であると考えている.まるで,個々別々に与えられる諸事実を分類整理することだけが科学者の仕事である,とでも言うかのようである」.マッハはさらに言う.「この作業[帰納]が重要であることはもちろんだけれども,それだけで科学者の仕事がすべて尽きてしまうわけではない.科学者であれば何よりもまず,説明すべき特徴とその関係を見出さなければならないのであり,この作業のほうが,すでに知られていることをクラス分けすることよりもずっと難しいのである」.
また,
 ニュートンの手続きを注釈しながら,マッハは最後に書いている.「直観的で生きた内容を概念に与えるためには,自然を理解する[包摂する](comprendre)前に,想像力においてとらえる(appréhendre)ことが必要である」.マッハは,実際,科学的直感の神秘的な性格(das Mysteriöse)を称賛しさえする.
非常に混乱してくるところなのだけど,簡単にまとめてみよう.
 コントは,それまで主流だった神や,超越的なものの存在に依存したやり方ではなく,経験的事実に基づき理論や仮説,命題を検証する立場をとった.これが実証主義とよばれるものである.一方マッハも,彼の時代の科学者が,古典力学を「神話」のように崇め,自らの科学を矮小化していることに警鐘を鳴らした.「機械論神話」が,コントによって打破されたはずの形而上学的な営みの類型にすぎないことを指摘したのである.
 入り口としては,実証主義とマッハは似るが,さらにマッハは,科学研究は帰納的なやり方にとどまるべきではなく,もっと直観的で,創造的な科学を志向していたのである.この点でマッハと単なる実証主義,経験主義は異なるものである.

(執筆途中)