2013年1月25日金曜日

『精神と物質』を読む 2


精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察,エルヴィン・シュレーディンガー
 ガレノスは私たちに断片(ディールス,断片一二五)を残してくれました.そのなかでデモクリトスは,何が「真実」なのかということにつきまして,知性(ディアノイア διάυοια)を登場させ,感覚(アイステーセイス αἰσθἠσειζ)と論争させております.知性いわく「表面上は色がある,表面上は甘味がある,表面上はにが味がある,しかし実のところ原子と空虚あるのみ」と.これに応報して感覚いわく「おろかな知性よ,われらからお前の論拠を借りてなお,われらに打ち勝とうと望むのか.お前の勝利は,お前の敗北」と.
 本章において私は,科学の末席たる物理学から得た単純な例を通して,二つの一般的な事実を対比させようとしました.すなわち,(a)自然科学のすべての知識は知覚に基づいているということ,そして,(b)それにもかかわらず,このようにして得た自然の過程に対する科学的な論点には,感覚的性質というものが欠如しており,したがってこれを説明できないということなのであります.一般的な論評をもって結論を申しあげましょう.
 科学的な理論は,私たちが観察や実験で発見したことがらを概観するのに役立ちます.科学者は誰でも,諸々の事実につきまして,それをまとめたなんらかの理論的な描像ができあがるまでは,かなり多量な事実を頭に納めておくのがなんと困難なことかよく知っております.したがいまして,次のことはちょっとした驚きでありますが,しかし元の論文や著書を書いた著者が決して責められてはならないことであります.論理的で首尾一貫した理論ができあがってからは,著者たちは,発見された元の事実や,読者に伝えたいそのままの事実については記さずに,これらの事実をその理論や他の理論の学術用語のなかにおおいくるんでしまうのであります.このようなやり方は,うまく順序だてられたパターンとして事実を記憶しておくのに有用なのですが,実際の観察と,それを元にして築いた理論との区別を消し去ってしまうことになるでしょう.観察されたことがらは,常に感覚的な性質に依存しているものですから,理論はこのような感覚的性質を説明してくれると安易に考えてしまうのです.しかしながら,理論は決して感覚的性質を説明するものではありません.

 現代の医療という科学について.
 科学的な態度で事実を説明・記述しようとして,得られた知見はもちろん科学的なものだ.しかしいざ私たちがその知見を目の前の問題に適用しようというとき,おや,これでいいんだろうかと悩むことがある.この違和感はたぶん結構重大で,というのは,科学的知見を知覚?し,さらに私たちの精神がそれを解釈し,アウトプットする.そういうインとアウトの2ヶ所で精神が介在するんだけど,その間は科学が全く説明のできない領域なのだ.
 昨今のEBMとよばれる一連の営みにおける「エビデンス」とは,科学的知見それ自体である.ここではしばしば「エビデンス・レベル」というものが取り沙汰されるが,それは「どれくらい厳密に科学的か」の度合いのことを指す.知見の科学性を問うのは比較的容易であるし,その純度を高めることは技術的には可能である.一方で,その知見をどう解釈し,どう適用するか,についてはどちらかというと見逃されやすいように思う.というよりもむしろ,エビデンス・レベルの高さというものが,解釈とか私たちの精神とかいったものを飲み込まんとする勢いさえ感じることがある.メタ・アナリシスという膨大なデータを束ねた科学的事実に対して,私たちはどう向き合うべきか,あるいは私たちの感覚は,それをどうコントロールすべきなのか.
 科学が,感覚までも説明し尽くすことを望むより,別のやり方があるようにも思うのだけど,まだわからないな.

0 件のコメント:

コメントを投稿