2013年2月28日木曜日

『考える生き方 空しさを希望に変えるために』を読む.


考える生き方 空しさを希望に変えるために,finalvent,ダイヤモンド社,2013

 弁当先生(finalvent氏のことをこう呼ぶ界隈もあるらしい…?)のブログを読むようになったのはそう昔ではなくて,いろいろレボリューションが起きた3年前くらいのことだったと思う.ちょうど,Twitterをはじめた直後だったか.というかブログ文化とか,はてな文化とかに曝露されたのもそのへんで,昔から知っていたというわけじゃない.ブログ自体は,2003年くらいからやってたような気がするのに.ひええ.
 コアなファンというわけじゃない.また,国際情勢なんかの内容が多かったりするもののそのエントリの内容が理解できてるかとかかなり怪しい.そういうちゃんとした理解が伴っていないんだけど,それでも彼の文章とか,タフに学んでいく姿とか,そういうのが好きでそれなりに追っていたんだと思う.

 単純に,ひとりの人間の人生の物語,みたいな感じで読んだ.淡々と読んだような気がして,ほんとうに小説みたい.示唆とか教訓とか,勉強とかそういうんじゃない読書として読んだのは久しぶりだったな.

 仕事・家族・恋愛・難病・学問.
 ひとが生きる人生のコンテンツってどんなもんだろうと思うけれど,まあこんな感じになるんだろうか.ぼくはまだ20代中盤だから,物語としては網羅性が低いのだろうけれど.Twitterで話していたけれど,弁当先生ってこんなに…こう…子どもっぽかったんだねっていうのはありました.大学院を2回中退ってどうなんですかね….
 ひとの評価,っていうとなんか語弊がありそうなんだけれど,たとえばこの人生はすごいねとか,あああれはクズだよねみたいなのってどうやって決まっていくんだろうって思った.ありきたりな感じでいえば,そのひと固有の人格とかに加えて,社会的な業績,とかなのかな.そのひとと親しくない限り,たとえば就活の場面とかでは人格の推測って限度があるので,社会的にrigidな業績とかで測られやすいんだろうか.たとえばぼくは,友達をどう見てるだろうか.彼女のことは?

 あるいは,そうやって外側からひとの人生を見たときと,そのひと自身がその人生に下す評価ってどんなだろうというのも考えた.弁当先生的には,自身の人生は「失敗だったが幸せだった」みたいな感じだろうか.
 ぼくは4月から病院で働くけれども,たとえば病院へ救急車で運ばれてくる人にたいしては,同情というかかわいそうね,みたいな感情をいだくことがある.日頃の不摂生がどうとかいうつもりはあまりないんだけれど(じっさい,不摂生でも病気になるかどうかは最終的には確率論なので).朝起きて,さて朝御飯にしようと思ったら右手が動かない,話せない.脳卒中だってなって,病院に運ばれてくる人.結果的に,残念でしたね,みたいな.
 人生における病気というのも,ランダムにその人にやってきて,不幸をもたらすと思う.そういうのを織り込んで,人生やっていくしかないし,そのあたりを自分自身でどう考えるかというと,まあ受容するしかないんだろうと思う,最終的には.

 自分自身のことをおもえば,自分の人生に対して自省をしたことはあまりなかったように思う.今と,これからについてにしか興味がないというか,このあたりでいっぱいいっぱいだったように思う.まあ,まだ若いんだしという気持ちでもいるけれど.

 ぜんぜん感想文になっていないけれど,とりあえず,弁当先生に興味がない人でも,第5章くらいは読んでみてもよいのでは,と思いました.

2013年2月27日水曜日

無題・引用

科学哲学,ドミニク・ルクール,文庫クセジュ,2005

 医療実践は,カンギレムの反省を「規範」「正常性(規範性)」「規範形成力」という概念を再吟味することへと向かわせたのである.カンギレムは,近代医学を1つの科学として称揚する支配的な実証主義の流れに逆らって,正常が逸脱(偏差)に対してつねに二次的であるということを明らかにした.カンギレムは,統計的に確立された平均として規範を客観主義的に理解することはすべてある不明瞭さに基づいており,その不明瞭さが順応主義的な目的のために,規範の確立の意味そのものを失わせてしまうということを示すのである.彼は,治療学がすでに与えられた生理学的な知の単なる適用にはなりえないだろう,ということに注意を喚起する.フランスの外科医であるルネ・ルリッシュ(1879~1955年)からカンギレムがかりた言葉によれば,医学は一つの技術,すなわち「複数の科学の交差点にある技術」であり続ける.個々人は固有の来歴に基づいて,比較し判断することで自分が病気であると宣言するのだが,結局のところ,医学はそのような個人の訴えが医学の原理のなかにあることを想定している.では科学者がそれぞれ依拠していることに気づくこの生命の諸価値から,認識することの意味を画定する手段はないのだろうか.カンギレムはベルクソンに反対して「科学は生命の向こう見ずな企てであるときだけ,みずからの意味をもつ」と述べている.生命は,保存と拡大というみずからの目的に到達するために,概念という重要な形式を想像するのである.ところで人間の固体は,それぞれ独自な生物である.その規範形成力は,他の生きている人びととの共通の尺度に頼らずみずからを肯定し,自分を貫く力の関係から確立される新しい諸規範を想像する一つの能力になる.したがって,ニーチェのような仕方で健康を定義し,固体が新しい地平を拓くために,みずからの限界を乗り越えることを肯定し引き受ける危険として,健康を定義しなければならないのではないだろうか.

2013年2月26日火曜日

昨日分

 東京にしばし滞在していたが,昨日帰った.帰りのチケットを,日程間違って予約していたという残念っぷりだったが,何とかオッチャンの慈悲によって帰ることができた.どうしようもないなこりゃ.

 母親と戦闘中だったが,一応持ち直したかなあという感じ.電話をしました.正直怖かった.まあこれはおいおい.書くんだろうか.

 弁当先生の『考える生き方』を読んだ.手厳しい評にどちらかというと同意な感じで,正直「なんだこれは」という印象であった.弁当先生が好きな人には読んでていいと思うけれど,ブログのような切れ味とかを期待する本じゃないです.示唆的なところはそれなりにあって,それも,弁当先生だから説得力を持つような内容もみられて,収穫は少なくないと思ってるんだけれど.55歳といえば,ちょうど両親がそれくらいか,それを越すくらい.オヤジが書いた本だと思うと結構いいよ.まあぼくのオヤジはそういうキャラじゃないけれど.
 また感想文は書こうと思う.

 はあどっこい.

2013年2月22日金曜日

当ブログにおける医療政策ネタの今後. (2)

 テキストは、日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011 である.
  1. 医療政策と社会正義 p. 7
  2. 制度および政策とは何か.pp. 19-20
  3. 医療保険制度の沿革
  4. 医療供給制度の沿革
  5. 国民皆保険制度の成立
  6. 医療保険制度の基本構造と問題点
  7. 混合診療をめぐる議論
  8. 医療供給制度の基本構造と問題点
  9. 診療報酬制度の基本構造と問題点
  10. 医学教育について
 一通りのテーマについて述べておきたいところだけれど、内容が膨大すぎて単なる写経になりかねないので、そういう場合は適当にテーマをspecifyして述べようと思う。

当ブログにおける医療政策ネタの今後.

 差し当たり、日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011 をテキストにして、主だったネタについてまとめながら取り上げ、時事的なものなどを織り交ぜながら書いていこうと思う。
あらゆる政策的テーマがそうであるように、医療政策もまた複雑系であり、いたずらな視野の限定は論点を失することに繋がる。常に俯瞰的な視点から状況を分析することが求められる。一方で、医療現場の感覚を失ったような分析は不要であろう。大学の学者のような分析ならば、このブログが取り上げる必要性も薄いだろうから。
 それから、自分みたいなのが医療政策を考えることについて。まあ、よくはわからないんですよね。自分自身が事象をマクロに考えることが好きだったり、現場レベルじゃどうしようもない事態になっている(らしいということを聞いた)ことだったり、そういう動機らしいものはあるんだけど。これが唯一絶対の自分の生きる道なんだっていう自信なんてのは皆目ないなあというのが素直な現状だと思う。
 何で医学部を受験したんですかって聞かれたとき、「国際医療に憧れて。」って言っていたのは真実なのだけど、結局今はこういうことになっている。カッコいいなあとかそういう、青い発想しかなかったけれど、今だにそのままなのは、一周まわって面白くもある。こういう考え方をするようになったのも、あるいは医師免許という最高に潰しの効くものを手に入れるからなのかもしれない。それってちょっと自己嫌悪だけど、美しく生きるだけが目的でもないしどうってことなさそう。社会貢献をしたいというのは、どうやらかつて(「国際医療をやりたい」と思っていた頃)からあって、あらゆる活動や人生のドライブになっているのは、こういう感情のような気がする。よくよく分析してみれば社会貢献というのは方法論に過ぎなくて、じっさいしたいのは、自分がたのしいと思うことらしいというのもあって、純粋人間じゃないのだが。
医療政策というのもひとつの学問のように思うが、西田幾多郎先生は以下のようなことを言ったらしい。
 
学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。
 
 文脈をちゃんと分析せずに引くのは愚かしいが、功利的に学問をやれというんじゃなく、life、すなわち人生とかくらしとか、そういう人間っぽい営みをひっくるめたものによりそって、学問ってあるべきなのかなあと思っている。
 
 表題とは全く違う内容となってしまったので、次のエントリに今後予定しているネタを書こうと思う。
 

2013年2月20日水曜日

『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』を読む

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い,中島義道,講談社選書メチエ,2002

 「なぜ私は私なのか」という問いを発したことがあるかと問われれば、ありませんでしたと答える人間だけど。確かに言われてみれば「私とは何か」というのは答えにくい問いだった。問う必要があるのかよという無粋な質問はやめよう。あるいは、「私」というものを失いそうになった時、思い出せればいいことがあるかもしれない。

 あとがきに述べられているように、

私とは、現在の思考や近くの場面にではなく、過去を想起する場面で忽然と登場してくる

ということなのだそうだ。そういうことが、つらつらと述べられている本である。いやいや、文体は相当読みやすい本だと思うんです。理解もしやすいしカントなんかより遥かに楽。まあ哲学書が読みやすさを売りにするっていうのもあまり聞かないけれど。

 御託が多くなりそうなので、さっさと本題に入ろう。

「私」を安直に前提すること、あるいは「開かれた問題 open question」について

 特に「私とは何か」という命題に向き合う時、「私とはAである」のような形で回答するのは論理的におかしな話である。それは「なぜ、Aは、私なのか」という新たな問いを提示できる。与えられた命題は「私とは何か」という形だけれど、これは実際のところ「なぜそうなのか」という理由も合わせて問うている。この「なぜ」に答えられない限りにおいて、如何なる言葉を尽くして「私とはAである」のような回答を提示しても、「なぜ」への回答たり得ない。だから、「私は考える、ゆえに私は存在する」という有名な文句も「私とは何か」の問いの答えとはならないのである。

 こういう命題はヒュームによって「開かれた問題 open question」と呼ばれ、ある言葉を様々な別の言葉に置き換えて説明しようとしても、結局「なぜそれは、それなのか」という問いは"開かれたまま残る"のである。結局のところこのような問いは、原理的に閉じることのできない問いなのである。このような問いを閉じようとすると、無理な言葉の武器が必要になってきて、現象学はこのような問いを無理に閉じる営みであるともいえるのである。

 このような問いに答える唯一の方法は、問題の構造を精緻に誠実に記述していくことである。結局のところこれがこの本の肝であって、「私とは何か」を問うにあたって、「私」を安直に前提して論点先取の誤謬に陥らないこと、「開かれた問題」にただしく向き合い説明することが本題である。このこと自体は「私とは何か」という問いとは別だけれど、考えるに当たって、多くの場合陥ってしまう陥穽らしい。まずはこれを丁寧に避けながら説明を試みることが重要だ。

知覚の現場に私はいない

 上記の流れからいうと、「今現在の知覚が私のものだという理由はないよ」ということになると思う。意識のあるなしや今かどうかが、「私かどうか」を決めるものではない。

 自分の経験や体験、みた夢、その他の知覚を、あとで「私は…した」という過去形の文章で作成できる者が私なのである。私が酩酊していても、無意識下に夢を見ていても、それら様々な感覚内容を総合的に統一することができる者が、私なのである。こうした作用の主体が超越論的な私すなわち「超越論的統覚」なのだ。

 そういうわけで、知覚の現場に私はいないのである。

結局、私とは何か

 息を殺して潜んでいるうちに、虎は去ってしまいました。私はその場から無我夢中で逃げ出す。そして、駆け込むように安全な宿舎に戻り、あらためて先ほどの恐怖体験を思い出す。安全な室内のベッドに横たわりながら、周囲の近く風景を沈ませて、そのうえに先ほどの虎が出現した光景を想起します。そして、そのとき忽然として「私」は登場するのです。

 私は「怖かった」のです。<いま>ほっとしている者は、あのとき(1つ前の<いま>)は足がすくみ息もできなかった者であり、その二重の異なったあり方における同一性をこの<いま>の側から端的に確認する者、それが私なのです。私はあのとき怖いという体験をもったのではない。そうではなく、<いま>あらためて「怖かった」と語ることによって、その怖かった者は「私だった」ことになるのです。

 過去の知覚内容といまとを繋ぐものとしての私、膨大な過去の経験を引き出す窓口としての私、そういう、過去のことがらから立ち現れてくるものが私であるという。

 いや、じゃあなんで、それが私なんだといえるんだ?

国家試験後、心境の変化について

 国家試験から10日ほどが過ぎた。今回の国家試験の難易度がどうであれ、大きな試験が終わったのは事実で、人生への向き合い方が変化しているのを感じる。あるいは、すでに変化の兆しは以前からあって、それを感覚したのが今頃なのかもしれないけれど。
 医学部での問題解決や思考というのが、如何にproblem-basedで、実学的かということが徐々に分かりだしてきた。最近読んだ中島義道の思考がこのような考え方とはまるで違っていて、問題の解決を前提しない思索を展開しているのに、ちょっと着いていけなかった部分があった。何が実で何が虚かということは議論するつもりはないけれど、6年間かけて訓練されてきた実学的な思考回路をどう保って、また新しい学びに繋げていくべきかというのは皆目わからない。また私自身の人生に対して、何らかの社会貢献みたいなものを目標に掲げて自分自身の外側に(も)生きる理由を見出すべきか、あるいは先日のエントリのように自分がたのしくやっていければいい、みたいなスタンスを取るべきかでちょっと困った。
 

これまでの感触としては

 比較的幅広く学んできたつもりで、そういう立場から言ってみれば、実学と虚学は結構違うらしいことはわかる。哲学と言ってもいろいろあって十把一絡げにはできないけれど、例えば「私とは」みたいな命題を考えていくような哲学は、この際勉強しきれない領域だなという気はした。
 一方で、自分のたったこれだけの少ない経験値から述べているだけで、確定的なことは何も言えないのだけど。実学と虚学は確かに違うけれど、隔絶されているものでもないような気がするし、幅広く学んでフィードバックが得られるならばそれには意義がある。
 読書や学習の方向性を自分自身で決めていけることは重要なのだけどなかなか難しい。とはいえ信頼できる師匠はそう多くない。情報収集に時間をかけるべきだが、さらにその前提として十分な勉強時間を確保し、また勉強へのモチベーションも保てるよう計画設計しないといけないなと思った。
 

師匠の不在について

 これについては打開策はなくはないので、自分の行動如何によるんだけど、現時点では問題としてある。乱読する余地がなくなってきたというのもある。
 

仲間の不在について

 これは慢性的にそうだったのでどうしようもないことなのかもしれない。いや実際のところ志を同じくする人は多からずいるんだけれど、ちゃんと繋がりきれていないところがあるというか。しかし、閉塞的な世相を反映してか、あるいは医学部ってそういうところなのかわからないけど、全体的にみて思想のバラエティに乏しいし、異端を攻撃する傾向が強いので、集団の中で仲間を見出しにくいというのは実際ありそうではある。
 まあ、おそらくわかりやすい仲間というのは方向性が先鋭化してきてやっと、見出されるものなのかもしれないし、今はそういう先鋭化をなるべく避けようとしているので、現状としてはこんなもんかなというところではあるんだが。
 

これから

 なんというか、区切りがついたからこそ、タイムリミットじゃないが先を計算して何かをしなきゃという焦りが顕在化したように思われる。確かに社会人生活は、非プライベートのところで束縛が多く、可処分な時間は少ないというのはわかる。一方で極めて効率的に生きたい、というわけじゃないし、ここまでやらないと死ねないというほどこだわっているわけでもない。ただ具体的には、今後5年程度の臨床経験である程度現場を実感して問題を抽出して、次のステップに行きたいというのはある。目下決まっているのはその5年ほどなので、差し当たってはこの5年間をどうするかくらいは考えた方が良さそうではある。
 
 ああ、心境が変化したっていう程、重篤なものではなかったっぽいな。それはそれでよかったけれども。

2013年2月19日火曜日

近況など.

 国家試験が終わり、平穏な日々。勉強部屋の友人と北海道へ行き(3泊4日)、東京にしばし滞在する。神奈川県での初期研修に向け、新居を契約する。初期費用の関係で、キッチンを妥協し一口コンロのところになる。読書を再開、中島義道を読むけど結構キツイ感じ。現象論とか勉強してないし仕方ないけど。ていうかこのへんの哲学界隈ってどこまで考えようか悩む。どう考えたって沼だし。また、途中で投げてたKuhnも読み始める。こちらは英語が結構高度で、これまた相当時間がかかりそうなのが予想される。
 卒業旅行で海外に行かないと、異端扱いなこの界隈で、自我を保つのに必死の感がある。下らないなあとわかってはいるけど、人と違うことにこうも抵抗を抱くのだなぁと思うにつけ、何だか変な感じがする。改めて思い返してみると、大学時代の間にまともに話すことができたのって2、3人くらいだったっていうのも、ちょっと不安ではある。高尚なフリして閉ざされたままでいると、フィードバックが減るから帰ってこれなくなるみたいな現象に陥ってないか、自省がいる。コミュニケーション能力は高くないので、積極的にいかなければなあと思う。
 ヒトから学ぶか本から学ぶかのバランスも再考すべき。学校(高校、大学)による社会関係資本は比較的細いので、自ら開発が必要だろう。金銭的な余裕に伴ってある程度は改善を見込むけれど、今度は時間がなくなるわけで、心してかからないといけない。
 
 30歳で成長が頭打ちになる人間にはならないようにしよう。これは他人を腐す意図はなく、自分自身の人生に課す課題として。「30にもなると、この先どうなるかが大体決まってくる」みたいなことは言わないでいよう。また、成長それ自体が目的なのではなく、もちろん他人に差をつけるのが目的なのではなく、一生物事にうおーすげーと思える、普通にたのしい人生にしよう。知的好奇心は、人生100年を十分楽しませるのに不足ないものだと思う。旅もそれに類似するが、旅という方法にこだわらなくてもいいだろう。大戦略は、たのしいことを見つけ続けること。方法論を広げていくこともまた、たのしみのひとつである。

2013年2月13日水曜日

『レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて』を読む

 読もう読もうと思って長いこと経ったと思ったら、2年も経っていたのでした。medtoolz先生のブログは前々から知ってはいたけれど、Twitterというツールのおかげで何度か会話をする機会もあったり、中の人は今どういう状況なのかとか噂で聞き知ったりして(真実かどうかは不明だけれど)、そろそろ読みたいなぁと思っていたところだった。
 本の内容はタイトルの通りで、医療とコミュニケーションについて書かれている。患者さんとのやりとりの仕方から、チームコミュニケーションの方法、医療ミスに遭遇した時の対象の仕方などからなっている。後半になるにつれて非常に重い内容で、医療ミスの話から医療訴訟への対象法が述べられる。医療訴訟については付録となっているけれど、そういう経験があったのだろうかとつい推測してしまう。
 いずれにせよ、医療のプロセスの一番始めは患者さんとの対峙であり、多くの場合はそこからのコミュニケーションにより医療が開始されると言っていい。医療は、患者さんを中心として、主治医、他科や受け入れベッドの担当医、看護師などのコメディカル、患者家族、警察や法律関係者などを巻き込んだ一連の営みである。医療の目的はもちろん患者の命を救うことなのだけど、社会における営みは、アウトカムだけで評価してくれるということはない。そういう状況で医師を正しく守り、よりよい医療の実践を可能にするひとつのやり方が、よいコミュニケーションをすることなのだと思う。
 

外来にて

 外来診療、ここでは特に、時間外診療をイメージするとよいのだけれど、まず患者さんが外来の所定のブース(部屋と呼べるほど整っている病院は僅かだろう)に呼び入れられる。在宅診療という形態も普及しつつあるが、多くの場合このような、「医師が待ち受ける場所に患者さんが来る」スタイルが基本になっている。基本的には患者さんはアウェイなので、こういう場合に、例えばブースの外までのほんの数歩を迎えに行くようにすれば、あなたのことに興味があるというシグナルを発することができる。医療というのは「合意獲得ゲーム」であって、「同意獲得」が目的ではない。そういう意味で、例えば医師が患者さんを「説得する」というのはおかしくて、患者さんの納得に基づく合意を得るようにしなければならないし、そのためには患者さんに歩み寄るシグナルを発することは重要である。
 また1度の外来ではカタが付かないとき、あるいは交渉に難渋して場の再設定が必要なとき、うまく流れを切って次回に繋げなければならない。話がこじれて決別しそうになったとき、「必要最低限だけ繋ぎ止めて、時間をおいて修復を待ってから再チャレンジ」みたいな技術があれば、その場限りの必死の努力をせずにすむ。そのためには暫定的な判断は「私は現時点では、このように思っています」などと言い、「多分あなたは◯◯でしょう」などと、判断を相手に押し付けないように心がけると良い。そうすれば、病気の診断を自分一人で抱えずに済むし、医師は自分の判断を確実にするために次回の外来を設定する、などといった判断が可能になる。
 

チーム医療について

 チーム医療の必要性について叫ばれて久しいし、それが有意義なことだというのはわかるのだけど、実践しようとなると生半可じゃない(らしい)。チーム医療についても、
 「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに経緯を持って接しましょう」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。
 何かを変える時には、考えかたを改めた結果として、振る舞いが変わっていくようにするのが望ましいけれど、たいていそれはうまくいかない。
として、場の空気を変える方法を提示する。例えば「言ってください」ではなく「教えてください」と言い換えると、外観の変化はもちろんのこと、教えてもらう気が全くなければ自然にそんな言い方をすることもできないし、結果として中身の変化にも繋がる。また「あの患者は理解が悪い」などといった主観的で仮想的なものさしを用いることは、そのものさしが共有できないためにトラブルの原因となる。そういう場合も「私たちとは隔たりがある」などというような表現に改めることが可能だろう。
 またこのような場合、事実と判断とを分離するという方法も有効で、「あの人って理解が悪いですね」などといった表現では、事実と判断とが混同していてトラブルを引き起こす。観測された事実と、その時自分が抱いた感想を区別する必要がある。
 

医療ミスについて

 この章には様々なことが書かれていて簡単にまとめるのは難しい。
 ひとつ、引いておくとすれば、「手段としての謝罪」を正しく認識するということで、つまり謝罪の効用を適所で適したタイミングで用いるべきという内容である。しばしば誤解されているが、謝罪はある過失のすべての責任が自分にあることを認める宣言ではなく、結果に対して残念だと思う気持ちの表出であって、事実については別途検証すべきものと考えるべきである。こういう手段であるから謝罪というのは、何かが起こってすぐに表出されなければならないし、これが遅れると再びトラブルの引き金になりかねない。患者さんにや家族にとって、医療上問題があった時、彼らの感情や、現在の状況に対して謝罪をすることは(表現の方法によっては)医師の責任を認めることとは一致しない。謝罪はタイミングが重要であって、事実関係を完璧にまとめてから表出されたのではしばしば手遅れになっていることが多い。先手を打って感情面に一種の区切りをつけることで、防ぎ得るトラブルを防止できる。
 

所感など

 これらの他にも医療訴訟などについてや、その他様々なテーマに触れつつ展開されていた。
 印象的というか、改めて感じたことは、誠実でありさえすれば思いは届くというような、出来レースのようなことは実際ほとんど起こり得ないことで、丁寧を期するほどコミュニケーションは行き詰まったり工夫もなく正直だけで突っ込めばドロ沼ということもある。誠実であることを金科玉条とするのは、リスクヘッジの観点から言っても妥当ではなく、ひいては患者さんの利益につながらないということだろう。
 医療は極めて不確実であり、予期せぬトラブルに巻き込まれる可能性は常にある。こういったトラブルを回避するために必要なのは、国試解説本ですらたまに見かける「訴訟を回避するための検査」よりもまず、患者とのコミュニケーションにあたっての戦略の練り直しであり、患者さんと共に歩む工夫を見出すことなのだろう。

国家試験終了.

107回国試は終わりました。
結局、経過報告を前日と1日目の2つしかしなかったけれど、まあ。得点は、一般臨床は9割弱、必修は9割強という結果でした。難易度としてはむちゃくちゃ易化したと思うので、そんなに良くはないと思うけれど、とりあえず合格ということにはなりそう。ショボい問題でミスをしたのはよくないのでそれなりに復習をすべきではあるが、概ね大丈夫でしょう。
 

これからの国試に問われること

予測にすぎないけれど、106と107の流れは明らかな知識レベルの低下と「即時の対応の判断」の問題の増加が特徴的だと思う。まず後者、「即時の対応」については、各予備校においてもかなり言われてきたことであって、特段目新しさはなかった。しかしこれが必修においてかなりシビアなところまで出題されたので、ヒヤヒヤした人は少なくなさそうである。冷静に考えれば妥当な選択を選ぶこともできるが、試験中という状況ではしばしばオーバートリアージ気味になってしまう。もちろん過小評価よりは人命にとって悪くないんだけれど、考えもなしにオーバートリートを繰り返せば、限りある医療資源はすぐに底が尽きる。そういう観点を学生に問うのは国家試験としては過剰な気もするけれど、現代の医療が抱える問題への処方箋としては、結構妥当なのだと思う。まあ、よく勉強してれば純然たる判断(すなわち、医療資源がどうとか、そういう非医学的な状況への対象)を問うているものはそこまで多くなくて、医学的にカタがつくものも多いんだけど。たぶん現場の人としては、「それはどっちでもいいんだけど、こっちの方がベターかなー」くらいの判断なんだろうが、一応、教科書には根拠とともに判断材料が書いてある。医学的にも、現場的にも妥当な、しかし単なる知識ではない問題、としてよく練られてはいたと思う。特に必修の、トロップTを聞く問題、妊娠の経過観察を聞く問題は、そういうテイストを感じた。
一方で知識問題の出題は相当に減少したようである(予備校の分析を待つべきだが)。マークシートというテストの性質もあるが、消去法などの方法が使えるので純然たる知識を問うこと自体が無理筋だろう。判断問題は、「経過観察とすべき」なのか「入院して精査すべき」なのかは、消去法によって選べないし、むしろダミー選択肢を適切に除外できる能力も評価し得る。知識が臨床で使えないはずはないし、レアな疾患ほど試験などのペーパーでしかお目にかかれないわけで意義はあるんだが、その比重がかなり減少の傾向にはあるようである。これはあまり良いとは思えない。理由は単純に、勉強を頑張った人が評価されないから。暗記に優れた人は少なくない割合で医学部にいるけれど、そうでない人も試験前には頑張っている。リピドーシスなんて試験前くらいにしか覚えてらんないけれど、覚えてくる(ぼくは覚えてなかった)。そういう努力はある程度評価されても良いと思うし、努力のしがいがある試験であることは望ましいことだとも思う。まあ、努力の評価が試験の本分ではないという判断なのだろうが。
 

対策など

対策はしにくくなったようにも思う。一方で、対策の必要性自体が低下したとも思う。
まず、対策のしにくさとは、例えば必修がこれまで新問中心だったのに輪をかけて、その場の判断を聞いてくる。もちろんようく勉強すればわかるんだが、必修のQBを解く事自体はほとんど対策にならない。もちろん、他人が取るようなプール問題を潰しておく意義はあるが、その意義も限定的だろう。必修のみならず一般臨床(特に臨床)でもこの傾向が見られ、QBが即時的に国試の対策になる割合は、減少しているとみてよい。無論、教科書の理解をアウトプットする場としては必要であり、QBは通過すべき関門ではあるが、それだけでは意外と点を落とすことになるだろう。
一方で、上で対策の必要性の低下と言ったが、それは実習の経験がそのままテストで問われるケースが増えたということである。実習で見てさえいれば解けた、というものも散見され(特に必修の臨床)、机上の勉強のみならず、実習を重要視せよという意図は感じられる。その意味で、机の前で勉強する時間を減らす一方で、ベッドサイドでの勉強が重要になってくる。
 

所感

卒業時OSCEの必須化を睨んだ国家試験だと言えそうである。ただし、実習重視の教育というのは一見すると正しそうだし、社会的にも容認されやすいが、一方で大学によってそれをどこまで提供できるかということに差がつく可能性もある。知識と技能の平準化が国家試験の本来的な目的だが、教育を受ける場の平準化は難しく、試験としてアウトカムだけを評価するというのは十分に整合的なのかわからない。
ただまあ、国家試験が6年間の集大成となる、というお題目には合致するものになってきているようには感じる。最早、国家試験は6年生で対策をするものではなく、4年生頃から積み上げるべきものとなっているのであろう。

2013年2月9日土曜日

107国試 1日目

 ABC問題.

 A 16/20, 35/40
 B 33/40, 19/22
 C 14/15, 16/16

 もうな,必修は予備校とかクエバンとかで対策するのではなく,ポリクリをしっかりやることなんだと思うんだわ.あと教科書は読むべき,全てを予備校講師のノートに頼らないことだな….教科書は,せめて病みえ(すみずみまで読む必要はある),ステップレベルでよい.朝倉とかハリソンはちょっとやりすぎである(しかし,しっかり引いておくと地頭的に効いてくる).

2013年2月8日金曜日

107国試 前夜

 遂に来た.

 TECOM ラストVを受講する.
 いや,この講座の学習効果とかイマイチだと聞いたので,あまりやりたくはなかったんだけど,直前系の講座を(金銭的理由から)あまりとっていなかったのもあって,これくらいはやるかぁと思って.三苫先生の講義は1時間にみたないほどのものだったんだけど,まあ割と復習にはなったと思う.MECの直前講座よりは,幅広いテーマを扱っていたようなのでよかったような.とはいえ十分に勉強した人にとっては,それほど必要ではなかったのかもしれないがなあ.

 久しぶりに勉強部屋以外のひとと席をならべて講座を受けるようなことをしたけれど,猛烈に暗記して来ているやつも多く,自分の知識のショボさに落胆する.まあ,いいんだけどさ(よくないが).言い訳はいろいろ可能なんだが,医学知識は多くて悪いことはないから,単純に努力不足.


 これまでのことを悔いるのは適度に.
 かんたんに復習をして寝よう.