2013年2月28日木曜日
『考える生き方 空しさを希望に変えるために』を読む.
考える生き方 空しさを希望に変えるために,finalvent,ダイヤモンド社,2013
弁当先生(finalvent氏のことをこう呼ぶ界隈もあるらしい…?)のブログを読むようになったのはそう昔ではなくて,いろいろレボリューションが起きた3年前くらいのことだったと思う.ちょうど,Twitterをはじめた直後だったか.というかブログ文化とか,はてな文化とかに曝露されたのもそのへんで,昔から知っていたというわけじゃない.ブログ自体は,2003年くらいからやってたような気がするのに.ひええ.
コアなファンというわけじゃない.また,国際情勢なんかの内容が多かったりするもののそのエントリの内容が理解できてるかとかかなり怪しい.そういうちゃんとした理解が伴っていないんだけど,それでも彼の文章とか,タフに学んでいく姿とか,そういうのが好きでそれなりに追っていたんだと思う.
単純に,ひとりの人間の人生の物語,みたいな感じで読んだ.淡々と読んだような気がして,ほんとうに小説みたい.示唆とか教訓とか,勉強とかそういうんじゃない読書として読んだのは久しぶりだったな.
仕事・家族・恋愛・難病・学問.
ひとが生きる人生のコンテンツってどんなもんだろうと思うけれど,まあこんな感じになるんだろうか.ぼくはまだ20代中盤だから,物語としては網羅性が低いのだろうけれど.Twitterで話していたけれど,弁当先生ってこんなに…こう…子どもっぽかったんだねっていうのはありました.大学院を2回中退ってどうなんですかね….
ひとの評価,っていうとなんか語弊がありそうなんだけれど,たとえばこの人生はすごいねとか,あああれはクズだよねみたいなのってどうやって決まっていくんだろうって思った.ありきたりな感じでいえば,そのひと固有の人格とかに加えて,社会的な業績,とかなのかな.そのひとと親しくない限り,たとえば就活の場面とかでは人格の推測って限度があるので,社会的にrigidな業績とかで測られやすいんだろうか.たとえばぼくは,友達をどう見てるだろうか.彼女のことは?
あるいは,そうやって外側からひとの人生を見たときと,そのひと自身がその人生に下す評価ってどんなだろうというのも考えた.弁当先生的には,自身の人生は「失敗だったが幸せだった」みたいな感じだろうか.
ぼくは4月から病院で働くけれども,たとえば病院へ救急車で運ばれてくる人にたいしては,同情というかかわいそうね,みたいな感情をいだくことがある.日頃の不摂生がどうとかいうつもりはあまりないんだけれど(じっさい,不摂生でも病気になるかどうかは最終的には確率論なので).朝起きて,さて朝御飯にしようと思ったら右手が動かない,話せない.脳卒中だってなって,病院に運ばれてくる人.結果的に,残念でしたね,みたいな.
人生における病気というのも,ランダムにその人にやってきて,不幸をもたらすと思う.そういうのを織り込んで,人生やっていくしかないし,そのあたりを自分自身でどう考えるかというと,まあ受容するしかないんだろうと思う,最終的には.
自分自身のことをおもえば,自分の人生に対して自省をしたことはあまりなかったように思う.今と,これからについてにしか興味がないというか,このあたりでいっぱいいっぱいだったように思う.まあ,まだ若いんだしという気持ちでもいるけれど.
ぜんぜん感想文になっていないけれど,とりあえず,弁当先生に興味がない人でも,第5章くらいは読んでみてもよいのでは,と思いました.
2013年2月27日水曜日
無題・引用
医療実践は,カンギレムの反省を「規範」「正常性(規範性)」「規範形成力」という概念を再吟味することへと向かわせたのである.カンギレムは,近代医学を1つの科学として称揚する支配的な実証主義の流れに逆らって,正常が逸脱(偏差)に対してつねに二次的であるということを明らかにした.カンギレムは,統計的に確立された平均として規範を客観主義的に理解することはすべてある不明瞭さに基づいており,その不明瞭さが順応主義的な目的のために,規範の確立の意味そのものを失わせてしまうということを示すのである.彼は,治療学がすでに与えられた生理学的な知の単なる適用にはなりえないだろう,ということに注意を喚起する.フランスの外科医であるルネ・ルリッシュ(1879~1955年)からカンギレムがかりた言葉によれば,医学は一つの技術,すなわち「複数の科学の交差点にある技術」であり続ける.個々人は固有の来歴に基づいて,比較し判断することで自分が病気であると宣言するのだが,結局のところ,医学はそのような個人の訴えが医学の原理のなかにあることを想定している.では科学者がそれぞれ依拠していることに気づくこの生命の諸価値から,認識することの意味を画定する手段はないのだろうか.カンギレムはベルクソンに反対して「科学は生命の向こう見ずな企てであるときだけ,みずからの意味をもつ」と述べている.生命は,保存と拡大というみずからの目的に到達するために,概念という重要な形式を想像するのである.ところで人間の固体は,それぞれ独自な生物である.その規範形成力は,他の生きている人びととの共通の尺度に頼らずみずからを肯定し,自分を貫く力の関係から確立される新しい諸規範を想像する一つの能力になる.したがって,ニーチェのような仕方で健康を定義し,固体が新しい地平を拓くために,みずからの限界を乗り越えることを肯定し引き受ける危険として,健康を定義しなければならないのではないだろうか.
2013年2月26日火曜日
昨日分
母親と戦闘中だったが,一応持ち直したかなあという感じ.電話をしました.正直怖かった.まあこれはおいおい.書くんだろうか.
弁当先生の『考える生き方』を読んだ.手厳しい評にどちらかというと同意な感じで,正直「なんだこれは」という印象であった.弁当先生が好きな人には読んでていいと思うけれど,ブログのような切れ味とかを期待する本じゃないです.示唆的なところはそれなりにあって,それも,弁当先生だから説得力を持つような内容もみられて,収穫は少なくないと思ってるんだけれど.55歳といえば,ちょうど両親がそれくらいか,それを越すくらい.オヤジが書いた本だと思うと結構いいよ.まあぼくのオヤジはそういうキャラじゃないけれど.
また感想文は書こうと思う.
はあどっこい.
2013年2月22日金曜日
当ブログにおける医療政策ネタの今後. (2)
- 医療政策と社会正義 p. 7
- 制度および政策とは何か.pp. 19-20
- 医療保険制度の沿革
- 医療供給制度の沿革
- 国民皆保険制度の成立
- 医療保険制度の基本構造と問題点
- 混合診療をめぐる議論
- 医療供給制度の基本構造と問題点
- 診療報酬制度の基本構造と問題点
- 医学教育について
当ブログにおける医療政策ネタの今後.
学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。
2013年2月20日水曜日
『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』を読む
「私」の秘密 哲学的自我論への誘い,中島義道,講談社選書メチエ,2002
「なぜ私は私なのか」という問いを発したことがあるかと問われれば、ありませんでしたと答える人間だけど。確かに言われてみれば「私とは何か」というのは答えにくい問いだった。問う必要があるのかよという無粋な質問はやめよう。あるいは、「私」というものを失いそうになった時、思い出せればいいことがあるかもしれない。
あとがきに述べられているように、
私とは、現在の思考や近くの場面にではなく、過去を想起する場面で忽然と登場してくる
ということなのだそうだ。そういうことが、つらつらと述べられている本である。いやいや、文体は相当読みやすい本だと思うんです。理解もしやすいしカントなんかより遥かに楽。まあ哲学書が読みやすさを売りにするっていうのもあまり聞かないけれど。
御託が多くなりそうなので、さっさと本題に入ろう。
「私」を安直に前提すること、あるいは「開かれた問題 open question」について
特に「私とは何か」という命題に向き合う時、「私とはAである」のような形で回答するのは論理的におかしな話である。それは「なぜ、Aは、私なのか」という新たな問いを提示できる。与えられた命題は「私とは何か」という形だけれど、これは実際のところ「なぜそうなのか」という理由も合わせて問うている。この「なぜ」に答えられない限りにおいて、如何なる言葉を尽くして「私とはAである」のような回答を提示しても、「なぜ」への回答たり得ない。だから、「私は考える、ゆえに私は存在する」という有名な文句も「私とは何か」の問いの答えとはならないのである。
こういう命題はヒュームによって「開かれた問題 open question」と呼ばれ、ある言葉を様々な別の言葉に置き換えて説明しようとしても、結局「なぜそれは、それなのか」という問いは"開かれたまま残る"のである。結局のところこのような問いは、原理的に閉じることのできない問いなのである。このような問いを閉じようとすると、無理な言葉の武器が必要になってきて、現象学はこのような問いを無理に閉じる営みであるともいえるのである。
このような問いに答える唯一の方法は、問題の構造を精緻に誠実に記述していくことである。結局のところこれがこの本の肝であって、「私とは何か」を問うにあたって、「私」を安直に前提して論点先取の誤謬に陥らないこと、「開かれた問題」にただしく向き合い説明することが本題である。このこと自体は「私とは何か」という問いとは別だけれど、考えるに当たって、多くの場合陥ってしまう陥穽らしい。まずはこれを丁寧に避けながら説明を試みることが重要だ。
知覚の現場に私はいない
上記の流れからいうと、「今現在の知覚が私のものだという理由はないよ」ということになると思う。意識のあるなしや今かどうかが、「私かどうか」を決めるものではない。
自分の経験や体験、みた夢、その他の知覚を、あとで「私は…した」という過去形の文章で作成できる者が私なのである。私が酩酊していても、無意識下に夢を見ていても、それら様々な感覚内容を総合的に統一することができる者が、私なのである。こうした作用の主体が超越論的な私すなわち「超越論的統覚」なのだ。
そういうわけで、知覚の現場に私はいないのである。
結局、私とは何か
息を殺して潜んでいるうちに、虎は去ってしまいました。私はその場から無我夢中で逃げ出す。そして、駆け込むように安全な宿舎に戻り、あらためて先ほどの恐怖体験を思い出す。安全な室内のベッドに横たわりながら、周囲の近く風景を沈ませて、そのうえに先ほどの虎が出現した光景を想起します。そして、そのとき忽然として「私」は登場するのです。
私は「怖かった」のです。<いま>ほっとしている者は、あのとき(1つ前の<いま>)は足がすくみ息もできなかった者であり、その二重の異なったあり方における同一性をこの<いま>の側から端的に確認する者、それが私なのです。私はあのとき怖いという体験をもったのではない。そうではなく、<いま>あらためて「怖かった」と語ることによって、その怖かった者は「私だった」ことになるのです。
過去の知覚内容といまとを繋ぐものとしての私、膨大な過去の経験を引き出す窓口としての私、そういう、過去のことがらから立ち現れてくるものが私であるという。
いや、じゃあなんで、それが私なんだといえるんだ?
国家試験後、心境の変化について
これまでの感触としては
師匠の不在について
仲間の不在について
これから
2013年2月19日火曜日
近況など.
2013年2月13日水曜日
『レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて』を読む
外来にて
チーム医療について
「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに経緯を持って接しましょう」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。何かを変える時には、考えかたを改めた結果として、振る舞いが変わっていくようにするのが望ましいけれど、たいていそれはうまくいかない。
医療ミスについて
所感など
国家試験終了.
これからの国試に問われること
対策など
所感
2013年2月9日土曜日
107国試 1日目
A 16/20, 35/40
B 33/40, 19/22
C 14/15, 16/16
もうな,必修は予備校とかクエバンとかで対策するのではなく,ポリクリをしっかりやることなんだと思うんだわ.あと教科書は読むべき,全てを予備校講師のノートに頼らないことだな….教科書は,せめて病みえ(すみずみまで読む必要はある),ステップレベルでよい.朝倉とかハリソンはちょっとやりすぎである(しかし,しっかり引いておくと地頭的に効いてくる).
2013年2月8日金曜日
107国試 前夜
TECOM ラストVを受講する.
いや,この講座の学習効果とかイマイチだと聞いたので,あまりやりたくはなかったんだけど,直前系の講座を(金銭的理由から)あまりとっていなかったのもあって,これくらいはやるかぁと思って.三苫先生の講義は1時間にみたないほどのものだったんだけど,まあ割と復習にはなったと思う.MECの直前講座よりは,幅広いテーマを扱っていたようなのでよかったような.とはいえ十分に勉強した人にとっては,それほど必要ではなかったのかもしれないがなあ.
久しぶりに勉強部屋以外のひとと席をならべて講座を受けるようなことをしたけれど,猛烈に暗記して来ているやつも多く,自分の知識のショボさに落胆する.まあ,いいんだけどさ(よくないが).言い訳はいろいろ可能なんだが,医学知識は多くて悪いことはないから,単純に努力不足.
これまでのことを悔いるのは適度に.
かんたんに復習をして寝よう.