2013年2月13日水曜日

『レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて』を読む

 読もう読もうと思って長いこと経ったと思ったら、2年も経っていたのでした。medtoolz先生のブログは前々から知ってはいたけれど、Twitterというツールのおかげで何度か会話をする機会もあったり、中の人は今どういう状況なのかとか噂で聞き知ったりして(真実かどうかは不明だけれど)、そろそろ読みたいなぁと思っていたところだった。
 本の内容はタイトルの通りで、医療とコミュニケーションについて書かれている。患者さんとのやりとりの仕方から、チームコミュニケーションの方法、医療ミスに遭遇した時の対象の仕方などからなっている。後半になるにつれて非常に重い内容で、医療ミスの話から医療訴訟への対象法が述べられる。医療訴訟については付録となっているけれど、そういう経験があったのだろうかとつい推測してしまう。
 いずれにせよ、医療のプロセスの一番始めは患者さんとの対峙であり、多くの場合はそこからのコミュニケーションにより医療が開始されると言っていい。医療は、患者さんを中心として、主治医、他科や受け入れベッドの担当医、看護師などのコメディカル、患者家族、警察や法律関係者などを巻き込んだ一連の営みである。医療の目的はもちろん患者の命を救うことなのだけど、社会における営みは、アウトカムだけで評価してくれるということはない。そういう状況で医師を正しく守り、よりよい医療の実践を可能にするひとつのやり方が、よいコミュニケーションをすることなのだと思う。
 

外来にて

 外来診療、ここでは特に、時間外診療をイメージするとよいのだけれど、まず患者さんが外来の所定のブース(部屋と呼べるほど整っている病院は僅かだろう)に呼び入れられる。在宅診療という形態も普及しつつあるが、多くの場合このような、「医師が待ち受ける場所に患者さんが来る」スタイルが基本になっている。基本的には患者さんはアウェイなので、こういう場合に、例えばブースの外までのほんの数歩を迎えに行くようにすれば、あなたのことに興味があるというシグナルを発することができる。医療というのは「合意獲得ゲーム」であって、「同意獲得」が目的ではない。そういう意味で、例えば医師が患者さんを「説得する」というのはおかしくて、患者さんの納得に基づく合意を得るようにしなければならないし、そのためには患者さんに歩み寄るシグナルを発することは重要である。
 また1度の外来ではカタが付かないとき、あるいは交渉に難渋して場の再設定が必要なとき、うまく流れを切って次回に繋げなければならない。話がこじれて決別しそうになったとき、「必要最低限だけ繋ぎ止めて、時間をおいて修復を待ってから再チャレンジ」みたいな技術があれば、その場限りの必死の努力をせずにすむ。そのためには暫定的な判断は「私は現時点では、このように思っています」などと言い、「多分あなたは◯◯でしょう」などと、判断を相手に押し付けないように心がけると良い。そうすれば、病気の診断を自分一人で抱えずに済むし、医師は自分の判断を確実にするために次回の外来を設定する、などといった判断が可能になる。
 

チーム医療について

 チーム医療の必要性について叫ばれて久しいし、それが有意義なことだというのはわかるのだけど、実践しようとなると生半可じゃない(らしい)。チーム医療についても、
 「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに経緯を持って接しましょう」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。
 何かを変える時には、考えかたを改めた結果として、振る舞いが変わっていくようにするのが望ましいけれど、たいていそれはうまくいかない。
として、場の空気を変える方法を提示する。例えば「言ってください」ではなく「教えてください」と言い換えると、外観の変化はもちろんのこと、教えてもらう気が全くなければ自然にそんな言い方をすることもできないし、結果として中身の変化にも繋がる。また「あの患者は理解が悪い」などといった主観的で仮想的なものさしを用いることは、そのものさしが共有できないためにトラブルの原因となる。そういう場合も「私たちとは隔たりがある」などというような表現に改めることが可能だろう。
 またこのような場合、事実と判断とを分離するという方法も有効で、「あの人って理解が悪いですね」などといった表現では、事実と判断とが混同していてトラブルを引き起こす。観測された事実と、その時自分が抱いた感想を区別する必要がある。
 

医療ミスについて

 この章には様々なことが書かれていて簡単にまとめるのは難しい。
 ひとつ、引いておくとすれば、「手段としての謝罪」を正しく認識するということで、つまり謝罪の効用を適所で適したタイミングで用いるべきという内容である。しばしば誤解されているが、謝罪はある過失のすべての責任が自分にあることを認める宣言ではなく、結果に対して残念だと思う気持ちの表出であって、事実については別途検証すべきものと考えるべきである。こういう手段であるから謝罪というのは、何かが起こってすぐに表出されなければならないし、これが遅れると再びトラブルの引き金になりかねない。患者さんにや家族にとって、医療上問題があった時、彼らの感情や、現在の状況に対して謝罪をすることは(表現の方法によっては)医師の責任を認めることとは一致しない。謝罪はタイミングが重要であって、事実関係を完璧にまとめてから表出されたのではしばしば手遅れになっていることが多い。先手を打って感情面に一種の区切りをつけることで、防ぎ得るトラブルを防止できる。
 

所感など

 これらの他にも医療訴訟などについてや、その他様々なテーマに触れつつ展開されていた。
 印象的というか、改めて感じたことは、誠実でありさえすれば思いは届くというような、出来レースのようなことは実際ほとんど起こり得ないことで、丁寧を期するほどコミュニケーションは行き詰まったり工夫もなく正直だけで突っ込めばドロ沼ということもある。誠実であることを金科玉条とするのは、リスクヘッジの観点から言っても妥当ではなく、ひいては患者さんの利益につながらないということだろう。
 医療は極めて不確実であり、予期せぬトラブルに巻き込まれる可能性は常にある。こういったトラブルを回避するために必要なのは、国試解説本ですらたまに見かける「訴訟を回避するための検査」よりもまず、患者とのコミュニケーションにあたっての戦略の練り直しであり、患者さんと共に歩む工夫を見出すことなのだろう。

1 件のコメント:

  1. お買い上げどうもありがとうございました。
    研修医として病棟にデビューしてから最初の半年ぐらいは、もうこいつらなんだというぐらいに上司や他職種の人たちに理不尽な思いをするかと思います。
    そうしたギャップも結局のところ、医師の側から「分からせてやる」のではなく、自身の技量の向上と、考えかたを相手に伝える技術というか、コミュニケーションのプロトコルが職場に共有されることで、自然に解消するのではないかと考え、こんな本をまとめた次第です。
    自分自身、分かってもらえない相手に「分からせてやろう」と試み、何度も失敗した反省があったりもするのです。。

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