2013年2月20日水曜日

『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』を読む

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い,中島義道,講談社選書メチエ,2002

 「なぜ私は私なのか」という問いを発したことがあるかと問われれば、ありませんでしたと答える人間だけど。確かに言われてみれば「私とは何か」というのは答えにくい問いだった。問う必要があるのかよという無粋な質問はやめよう。あるいは、「私」というものを失いそうになった時、思い出せればいいことがあるかもしれない。

 あとがきに述べられているように、

私とは、現在の思考や近くの場面にではなく、過去を想起する場面で忽然と登場してくる

ということなのだそうだ。そういうことが、つらつらと述べられている本である。いやいや、文体は相当読みやすい本だと思うんです。理解もしやすいしカントなんかより遥かに楽。まあ哲学書が読みやすさを売りにするっていうのもあまり聞かないけれど。

 御託が多くなりそうなので、さっさと本題に入ろう。

「私」を安直に前提すること、あるいは「開かれた問題 open question」について

 特に「私とは何か」という命題に向き合う時、「私とはAである」のような形で回答するのは論理的におかしな話である。それは「なぜ、Aは、私なのか」という新たな問いを提示できる。与えられた命題は「私とは何か」という形だけれど、これは実際のところ「なぜそうなのか」という理由も合わせて問うている。この「なぜ」に答えられない限りにおいて、如何なる言葉を尽くして「私とはAである」のような回答を提示しても、「なぜ」への回答たり得ない。だから、「私は考える、ゆえに私は存在する」という有名な文句も「私とは何か」の問いの答えとはならないのである。

 こういう命題はヒュームによって「開かれた問題 open question」と呼ばれ、ある言葉を様々な別の言葉に置き換えて説明しようとしても、結局「なぜそれは、それなのか」という問いは"開かれたまま残る"のである。結局のところこのような問いは、原理的に閉じることのできない問いなのである。このような問いを閉じようとすると、無理な言葉の武器が必要になってきて、現象学はこのような問いを無理に閉じる営みであるともいえるのである。

 このような問いに答える唯一の方法は、問題の構造を精緻に誠実に記述していくことである。結局のところこれがこの本の肝であって、「私とは何か」を問うにあたって、「私」を安直に前提して論点先取の誤謬に陥らないこと、「開かれた問題」にただしく向き合い説明することが本題である。このこと自体は「私とは何か」という問いとは別だけれど、考えるに当たって、多くの場合陥ってしまう陥穽らしい。まずはこれを丁寧に避けながら説明を試みることが重要だ。

知覚の現場に私はいない

 上記の流れからいうと、「今現在の知覚が私のものだという理由はないよ」ということになると思う。意識のあるなしや今かどうかが、「私かどうか」を決めるものではない。

 自分の経験や体験、みた夢、その他の知覚を、あとで「私は…した」という過去形の文章で作成できる者が私なのである。私が酩酊していても、無意識下に夢を見ていても、それら様々な感覚内容を総合的に統一することができる者が、私なのである。こうした作用の主体が超越論的な私すなわち「超越論的統覚」なのだ。

 そういうわけで、知覚の現場に私はいないのである。

結局、私とは何か

 息を殺して潜んでいるうちに、虎は去ってしまいました。私はその場から無我夢中で逃げ出す。そして、駆け込むように安全な宿舎に戻り、あらためて先ほどの恐怖体験を思い出す。安全な室内のベッドに横たわりながら、周囲の近く風景を沈ませて、そのうえに先ほどの虎が出現した光景を想起します。そして、そのとき忽然として「私」は登場するのです。

 私は「怖かった」のです。<いま>ほっとしている者は、あのとき(1つ前の<いま>)は足がすくみ息もできなかった者であり、その二重の異なったあり方における同一性をこの<いま>の側から端的に確認する者、それが私なのです。私はあのとき怖いという体験をもったのではない。そうではなく、<いま>あらためて「怖かった」と語ることによって、その怖かった者は「私だった」ことになるのです。

 過去の知覚内容といまとを繋ぐものとしての私、膨大な過去の経験を引き出す窓口としての私、そういう、過去のことがらから立ち現れてくるものが私であるという。

 いや、じゃあなんで、それが私なんだといえるんだ?

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