2012年10月31日水曜日

Westermark sign

ウエスターマークサイン,ヴェスターマークサイン

PE, 肺門部扁平上皮癌等において,肺動脈への侵襲・塞栓を認める場合,肺動脈陰影が突如消え,またその肺動脈の潅流領域に限局性の透過性亢進を認めるもの.
下図では,左肺の下肺に向かう肺動脈が突如消失している.

- wiki Radiography, http://www.wikiradiography.com/page/Westermark+Sign

2012年10月28日日曜日

おぼえがき

臨床研修制度と医師の偏在の問題について。
「医師の偏在」を根拠に、6都府県の研修医数を絞ろうという議論はあるが、そもそも前提となる「6都府県に医師が偏在している」という命題自体がどれくらい妥当かは明らかでない。厚労省の報告書は、医師の偏在の問題に興味がある様子だったが、その前提への分析については、ちゃんと調べる必要がある。
いずれにせよ、偏在是正を「枠の絞り込みによって」達成しようというのは、やや暴力的のような気がするし、地域は自ら医師を惹きつけなければ、定着しないからどのみち同じ結果となりそうではある。
 

2012年10月27日土曜日

表出する自分について

 自分で研究をデザインしてみよう,ということで始めた勉強会.具体的に考えてみると,具体的に自分の足りなさや浅さが見えてきて,生半可にはいかない.ある程度バカなのは仕方ないにしても,したり顔で他人の批判キメているような人間になりかけているような気がして,ああこれいかんわ,と思ったところである.
 実際やってみると違う,っていうのは確かにあった.まあ,だからといって,「経験がなければ批判してはいけない」とするとまた,進歩がなくなってしまうんだろうけど.研究をやる人,批判を加える人,双方の体験をしておくことは大切だと思った.やっぱりコミュニケーションというものは,共通点や共感があってこそ,なのだと思うし.


 ぼくは,研修医教育とか,医学部学生→医師っていう,かなり初期の医学教育について調べてみたいと思った.その中で,「よりよい医師」って何だろうというのが大きなテーマになった.もうすこし,問題を特定・具体化しよう.
 医師のキャリアの一番始め,特に初期研修とよばれる2年間をどう作るかというのは重要だとみなされている.その医師にとっての土台作りとして重要になると思われるからである.ここでの土台とはつまり,適切なプライマリケアを実践できるだとか,医師としての素養を涵養するだとか,もっとそもそも論的なところだと,医師の仕事ってどう? やりがいや面白さが見付かった? とかいうのもあるだろう.医師というのは短期間に完成できる職業ではなく(他の領域もそうかもしれないが),そうだとすれば「初期目標」というのは自ずと医療技術や,手技の上手下手より,ヒヤリとした経験を指導医に救ってもらっただとか,救急の初期対応ができるだとか,今後一生学んでいくにあたって医師という仕事に愛着や,誇りや,やりがいや,面白さを持てたとか,もちろん,そうじゃなかったとか,そういうものになるだろう.それを可視化してみたいなと思う.それらがアウトカムになりうる.で,教育という曝露のどの要素を持ってくるかだけれど,救急車台数,当直回数,担当患者数あたりは入れてみてよさそう.医学生が病院を選ぶうえで,一応確認する項目ではあるし.多すぎても少なすぎてもダメだ,というところはありそうなので,適正範囲みたいなのの目処をつける意味でもやってみたい.とはいえこの曝露設定だけではイマイチなので,もうすこし本質に迫るようなものを設定しなければならず,ここが難しい.上の先生に聞いてみないといけないような気がしている.


 なんだかもにょもにょ,落ち着かない感じ.研究という形にする作業,捗っていない気がする.自分の内面や問題意識を,形あるものとして認識しなおして,それを世の中に表出していく作業,自分にできてるかっていうと自信がない.いたずらに理論武装してきたところがあるから,その虚な感じにさらに辟易する.
 まあいろいろ言ってもやることは決まっているのだがなあ.

2012年10月24日水曜日

無題・引用

日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011

家庭医を総合医あるいはプライマリ・ケア医といっても構わないが,かかりつけ医という言葉に置き換えるのは適当ではないことである.なぜなら,かかりつけ医は患者が選択し"かかっている"という事実に着目した概念である.したがって,大学病院かかりつけ医といってもおかしくないし,1人の患者が疾病ごとにかかりつけ医をもつことも語義矛盾ではない.しかし,家庭医の議論の本質はプライマリ・ケアを医療政策上どのように位置づけるのかということにあり,かかりつけ医という言葉を用いることは議論の焦点を曖昧にするからである.


雑感・社会的入院

 社会的入院へのニーズがある.それは,患者・家族の側から,そして,医療従事者(多くは医師)の側からも.
 患者自身の医療の必要度から言って,過剰な医療を提供される病床での,社会的入院.「そこじゃなければならない」ではなく,「そこしかない」みたいな理由で選ばれる.
 需要と供給のミスマッチが存在する.より医療を少なめにしたような病床へのニーズが高いのにもかかわらず,そういう病床が足りていないわけだ.

 社会的入院は,しばしば医療従事者の儲け精神だとか,患者・家族の過剰な心配だとか,そういう観点から批判されたりするように思うが,むしろ需給のミスマッチととらえた方が捗りそうではある.だからといって問題は解決しないが,とはいえ無意味に対立するべきでもないように思う.

2012年10月23日火曜日

雑感・『社会を変えるには』

各地方から選出される代議士に「代表されてる」感は乏しいが,地元のサッカーチームや野球チームはやはり「地元の代表」という感じがするのはなんとも不思議ではないか.

医師ー患者関係についての議論

 おおきな枠組みというか,考え方の軸としては,「患者中心の医療」(patient-centered medicine).とはいえこれ自体は明確な医療のスタイルを定義できない.消費者主権的なあり方でもって患者=消費者が医療を選び,消費するというのは恐らく間違いで,一方で(当然のことながら)医療従事者が患者情報を掌握し重大事項の決定権を独裁的に握るというのも誤りである.そして更に議論を難しくするのが,患者が求める医療が,かならずしも医療として正しくない可能性もあるということで,医療情報の非対称性や,医療情報の高度さおよび入手しづらさ,また,効果のないサプリメント等を詐欺的に売り込む業者の存在などである.患者中心と言うとき,それが何を意味するのか適切な定義が必要である.また,その中で鍵となるのが医師ー患者関係のあり方だろうと思う.

 医師ー患者関係といってもいろいろありそうで,実際的な関係,法律上・制度上の関係などなど.そのあたりは分けて考えなければならない.

雑感・社会保障論

医療供給体制のうち,医療従事者として筆頭に挙げられるのは多くの場合医師であり,それゆえ医師以外にはこの問題を議論する本質的な動機が無いのじゃないかと思われる.よほど,正義や義憤に駆られない限り…

2012年10月22日月曜日

医療保険制度の一元化にかんする論点


日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011

 現行の医療保険制度は被用者保険と地域保険の二本建てとなっている.これはもともと,1922年に労働立法として健保法が,また1938年に農村の疲弊を救済するために国保法が制定され,田畑や農地をもつ農民がムラ・地域単位で形成する地域保険と,「カイシャ」(企業や官庁など職域共同体)単位で形成する被用者保険をベースとした保険制度が確立したことに端を発する.しかし高度経済成長を経た20世紀後半になって,社会経済の変化に伴い保険者の実態は変化した.とりわけ国保に強い影響があらわれ,2007年度の国保の世帯主の職業構成は,無職者(その多くは高齢者)が過半(55.4%)を占め,農林水産者(3.9%),自営業者(14.3%)を合わせても2割に満たず,被用者(国保内被用者)の23.6%より小さくなっている.農林水産者,あるいは自営業者の少なさに加え,国保内被用者の割合が低くはないことからも,被用者保険と地域保険の境界が曖昧になっていることは間違いない.医療保険制度を地域保険に一元化すべきだという見解が登場する背景である.


Q. 医療保険制度を地域保険に一元化すべきか?

反論1:稼得形態の違い.自らの権限と責任で事業を営む自営業者と異なり,生産手段をもたず他人に雇われ生計を維持せざるを得ない被用者については,その稼得形態の性格上,労働保険(労災保険および雇用保険)だけでなく医療保険においても一定の配慮を必要とする.保険料が労使折半となっているのもそのためである.仮に地域保険に一元化した場合,事業主は保険運営に関わらないため保険料の事業主負担の根拠が喪失する.これは財源確保の問題もさることながら,被用者に対する社会保護政策のあり方の根本に関わる問題である.

反論2:所得捕捉率の相違.収入そのものの補足の問題と,必要経費の補足の問題がある.自営業者の所得や経費を完全に補足するのは不可能であり,一元化したとしても結局は別体系での保険料の賦課・徴収となりうる.

反論3:原則と例外の関係.非正規労働者が増大しているといっても,被用者保険加入者が全体の約6割を占めている.将来的に考えても雇用という形態が廃れることは考えにくく,従って行うべきことは,原則を例外に合わせることではなく,被用者保険と地域保険の二本建ての体系は維持した上で,被用者の範囲について必要な見直しを行うことである.

2012年10月18日木曜日

WoE; Ex 2:1

Q. 中年女性の脳卒中リスクにおける喫煙の影響について調べられた。曝露(喫煙)のどのような側面が考慮されるべきか?曝露、非曝露群はどのように定義されるべきか。
 
脳卒中リスクに影響する因子:年齢、性別、既往歴(糖尿病、高血圧、脂質異常症)、家族歴、生活歴(喫煙)
喫煙という曝露について:喫煙本数(/月)、含有成分の濃度
曝露、非曝露の定義:current smoker, past smoker(x年前にやめた), never smoker
 
A. aspectsにかんして:量と頻度ー例えば、一日平均何本吸うか。たばこの種類ー例えば、サイズによって、フィルターによって、または有効成分(有害成分)の濃度によって。喫煙への姿勢ー例えば、吸入の深さ、残りたばこの量。その他には、パターン、タイミング、一回の喫煙時間などによっても検討していいだろう。
categoriesにかんして:曝露群は、多くの場合で一日平均本数による(例えば、1-4, 5-14, 15-24といったように)。これは異なる時期での分類に有用だが、一方でこの分類は現在の喫煙者にのみ当てはめうるものであり、"past smoker"については単一の分類となってしまう。その他の方法としては、例えばたばこの種類や喫煙への姿勢によっても分類できる。非曝露群は、never smokerのみを組み入れるべきだろう。
 
 
感想:当てもせず、外しもせず。実際に研究するつもりで回答した方がいいと思った。

2012年10月17日水曜日

Workbook of Epidemiology; 2 Asking the Right Questions

 「この病気の原因は何だろうか?」と問うこと,あるいは病気がどのようにして起きるのかを解明することが科学のひとつの本質,あるいは目的である.あるいは予防医学や公衆衛生学などの分野においては,その病気の予防もまた目的となる.
 いま,この命題を原因を曝露exposure, Eとし,結果を病気disease, Dとしたとき,
  「EはDの原因か?」
と書き直す.むろんあるDに対して原因は様々だろうから,より妥当には
  「EはDのリスクを上げるか?」
と書ける.さらに付け加えると,
  「EはDのリスクを上げるか? また,その程度はどれくらいか?」
さらに,
  「EはDのリスクに影響するか? また,リスクの増減いずれなのか,またその程度はどれくらいか?」
と書けるだろう.
 こうして,医学における基本的な問いをより"特異的specific"なものに書き直した.ていねいな問いに練り上げることは重要であり,それは研究デザインや,研究の規模を既定することになり得るのである.

影響をどう測るか

相対的な効果relative effectによって.疫学指標的にいえば,relative risk, RR.

曝露

簡単に,「高脂肪食の摂取は,心筋梗塞のリスクに影響するか? もしそうなら,リスクにどう影響するか,また,それはどれくらいか?」という問いを立てるとする.曝露としての「高脂肪食の摂取」は,様々に定義・表現できる.
 脂肪の種類はどうか;飽和脂肪酸,不飽和脂肪酸など
 曝露のタイプ;量,頻度,期間…

導入時期

曝露の表現にかんして.喫煙と肺癌のリスクについても,喫煙と潰瘍性大腸炎のリスクについても,喫煙への曝露がどの時期にあったか,やめてどれくらい経つか,などの因子があり,これらを勘案しなければならない.

病気

病気といっても様々ある.脳卒中とひとことに言っても,血栓性脳梗塞や出血性脳梗塞など,病態が異なればリスク因子との関連も変わる.

調整因子

所与の因果関係の外部から,この関係に影響する因子があり得る.たとえば,急性下痢症のリスクを考える時,患者がワクチン接種者か,非接種者かによってそのリスクの評価は変化する.この場合には,この調節因子を排した研究デザインとするか,あるいは始めの問いを「非接種者における影響は?」などとより特異化したり細分化したりするなどして,立て直しをする必要がある.

その他.


2012年10月6日土曜日

統計学をどう捉えるかは,科学リテラシを測るものさしのひとつになりうると思う

以下のようなツイートを目にした.

私ははっきりいって統計学が嫌い。統計学ってどこかうさんくさい。前提があっていれば確かに厳密に結果は正しいのだが、その前提が疑わしいことが多い。凡人は統計の数学的処理でエネルギーの99%を使い果たしてしまう。平均と標準偏差くらいでいいんじゃない?後は直感のほうが正しい気がする。
https://twitter.com/elm200/status/254223200773345280

「正しい」という概念がまず,統計学がどうして科学に導入されたかという経緯を見過ごしている.かつて,ニュートン科学が発達したころは,原因と結果が1対1対応する現象が多く見出され,「科学は真実」だとされた.それは妥当な認識だろう.
細かい科学史について言及することは避けることとして,量子力学や生命科学,医学などはあきらかに「原因と結果」が自明でない.というか,誤差を含みつつも「確からしい(すなわち,確率論の議論)」現象を見出す作業が中心となっている.科学観というべきか,あるいは科学をどう認識するかということは,ゆるやかにラディカルに,変化している.

冒頭で言及したつぶやきに関して,彼自身の科学に関する洞察が浅いというわけではなく,「多くの人が科学とは,真実を明らかにする作業だ」と思っている風なのである.あるいは確率論的議論に弱く,確率論のファジーさを許容できない,その状態に耐えられない人が多いように思う.

統計学がかなり恣意的に利用されている節があるのは事実である.そういう恣意性を排除する方法や,批判的吟味 critical appraisalの方法論についても確立されつつあるが,一般の人にとってはアクセスが難しいだろうし,習得にも手間がかかることは否めない.統計学をもっとアクセス可能にすることは重要だが,それは統計学者によってなされることだろうと思う.むしろ,これから求められることは,社会現象や科学的問題を実際に統計学的あるいは確率論的議論により解明・説明し,その結論をより平易で,わかりやすく統計学的分析をプレゼンテーションすることだろうと思う.

ともあれ,冒頭の発言者はかなりの教育を受けた人であり,学ぶ姿勢を捨てることは,褒められたことではないだろうが.

2012年10月5日金曜日

無題・引用

ところが、ぼくはあの、なんと呼んだらいいか知らないが、ある種の無邪気さのために起る貧困化を見ると、どうにも腹が立ってしようがないんだ。

『アンナ・カレーニナ』 トルストイ

2012年10月4日木曜日

古典は,古くならないからこそ古典と呼ばれる.

現代の,科学やそれに留まらずあらゆる領域で,専門性の先鋭化が進み,その隙間に落ち込むものが出てたり,大局観を失いジリ貧に突っ込んだりする.専門外を知るための一連の努力に必要以上のリスクを感じる必要はなく,むしろ自らの専門に返ってくる示唆を得られるのではないか.まさに,急がば回ることである.
非常に今日的話題ながら,それが1940年代に書かれたものであるというのが興味深い.まあ,戦争周辺だし様々なものがラディカルに発達した時代なんだろうが.

無題・引用

 われわれは,すべてのものを包括する統一的な知識を求めようとする熱望を,先祖代々受け継いできました.学問の最高の殿堂に与えられた総合大学(university)の名は,古代から幾世紀もの時代を通じて,総合的な姿こそ,十全の信頼を与えらるべき唯一のものであったことを,われわれの心に銘記させます.しかし,過ぐる100年余の間に,学問の多種多様の分枝は,その広さにおいても,またその深さにおいてもますます拡がり,われわれは奇妙な矛盾に直面するに至りました.われわれは,今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が,今ようやく獲得されはじめたばかりであることを,はっきりと感じます.ところが一方では,ただ一人の人間の頭脳が,学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは,ほとんど不可能に近くなってしまったのです.

『生命とは何か 物理的にみた生細胞』シュレーディンガー