2012年10月6日土曜日

統計学をどう捉えるかは,科学リテラシを測るものさしのひとつになりうると思う

以下のようなツイートを目にした.

私ははっきりいって統計学が嫌い。統計学ってどこかうさんくさい。前提があっていれば確かに厳密に結果は正しいのだが、その前提が疑わしいことが多い。凡人は統計の数学的処理でエネルギーの99%を使い果たしてしまう。平均と標準偏差くらいでいいんじゃない?後は直感のほうが正しい気がする。
https://twitter.com/elm200/status/254223200773345280

「正しい」という概念がまず,統計学がどうして科学に導入されたかという経緯を見過ごしている.かつて,ニュートン科学が発達したころは,原因と結果が1対1対応する現象が多く見出され,「科学は真実」だとされた.それは妥当な認識だろう.
細かい科学史について言及することは避けることとして,量子力学や生命科学,医学などはあきらかに「原因と結果」が自明でない.というか,誤差を含みつつも「確からしい(すなわち,確率論の議論)」現象を見出す作業が中心となっている.科学観というべきか,あるいは科学をどう認識するかということは,ゆるやかにラディカルに,変化している.

冒頭で言及したつぶやきに関して,彼自身の科学に関する洞察が浅いというわけではなく,「多くの人が科学とは,真実を明らかにする作業だ」と思っている風なのである.あるいは確率論的議論に弱く,確率論のファジーさを許容できない,その状態に耐えられない人が多いように思う.

統計学がかなり恣意的に利用されている節があるのは事実である.そういう恣意性を排除する方法や,批判的吟味 critical appraisalの方法論についても確立されつつあるが,一般の人にとってはアクセスが難しいだろうし,習得にも手間がかかることは否めない.統計学をもっとアクセス可能にすることは重要だが,それは統計学者によってなされることだろうと思う.むしろ,これから求められることは,社会現象や科学的問題を実際に統計学的あるいは確率論的議論により解明・説明し,その結論をより平易で,わかりやすく統計学的分析をプレゼンテーションすることだろうと思う.

ともあれ,冒頭の発言者はかなりの教育を受けた人であり,学ぶ姿勢を捨てることは,褒められたことではないだろうが.

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