2013年4月7日日曜日

初期臨床研修 D10

 現時点ではオリエンテーションばかりで,ほとんど座学である.たまに,採血をやったり看護師について実習をするなどの,学生っぽい"実習"もやるけれど.

 肩書がついに,医師となった.なんというか社会人になるということ自体への,あるいは医師としてマジで責任を負うことについての感慨というより,「労働者として,ある団体に所属する」ということの「ポジションフリーでいられなさ」というか,社会の一員となってみたときの,社会のみえかた,などに非常に感慨を受ける今日このごろである.まだそういう余裕があるからいいんだけれど.

 わたしが所属しているのは,とある大きな医療法人グループの病院である(こう書くだけで,わかる人はわかるし,知らない人でも適当にグーグル検索すればわかる).大学病院,あるいは公立病院などに勤めたことがないし,そういう立場を想像するには限度があるけれども,医療界の「常識」として自分の立ち位置が普通じゃないのはわかる.全体的にみると,嫌われる傾向の多いグループなのである.
 自分自身の苦慮として,どの病院で研修すべきかというのはあった.このグループに属することは程度の多寡さえあれ,一定数確実に嫌悪の目で見られるというのは事実である.そういう選択肢は自分にとってどうなのか,悩んだ.最終的にはここに来ることを自分で決めたと思う(本当に,自分の師匠と思っている人にまで反対されていたので,決断は自分でしたと思う).
 医療界,あるいは医師という界隈は,必ずしも一枚岩ではない.同一の職業であっても様々な集団があり,それぞれが自分にとって有利なポジションをとるのである.大学に所属していれば大学,各教室,大学病院,関連病院という世界から日本をみるのである.済生会には済生会の,日赤には日赤の,日本のみえかたがあるのである.実際のところ,大学や医師会などといった集団が,医療界の大きな声を形成する.今回はこのような集団から完全に決別するような集団に属している.それはある意味ハードであるんだけれど,見え方がガラリと変わって大変興味深く思っている.

 県医師会の話を聞く機会があった.お歴々が話をする中で興味深い一節があった.
「日本の医療は,医療従事者,特に若い医療従事者の涙ぐましい努力によって支えられている」
医師会としては,そのような労働環境を是としているという風にしか見えなかった.しかし,どうしてこのようなことを認めてしまうのだろうと思う.職能団体としての能力の低さ,とるべきポジションの不明さなどが際立つ印象的なセッションであった.

 なかなか見えてこなかったものが,見えてくるようになるのを楽しみにしている.

2013年3月24日日曜日

『患者よ,がんと闘うな』を読む.

 著作は2000年12月に出版されている.また,この文庫版の元である単行本は,1996年3月に出版されている.また先日2012年12月に,『医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法』と題した著作も出ている.その他にも著作は多く,「抗がん剤は効かない」論壇の主要な論客である.

 近藤誠氏には,称賛・批判共に多く,彼の主張はがん医療にまつわって大きな議論を巻き起こした.このことについてぼく自身の個人的感想としては,とりあえず議論があることはよいことだと思うので,それについては良かったと思っている.ただし,一連の議論が単なる喧嘩に終わり,プロフェッショナル間のコミュニケーションの断絶を生むのだとしたら,それは残念なことだと思う.しかしこういう,意地の張合いというのは見ていてみっともないなあと思うところではある.どちらかというと,既存の理論を主張している側がまともに反論できていない感はあるんだけど.

 さて,本の目次は以下.
まえがき
第1章 抗がん剤は効かない
第2章 抗がん剤は命を縮める
第3章 手術偏重に異議あり
第4章 苦しまずに死ぬために
第5章 がんを放置したらどうなるか
第6章 放射線治療の功と罪
第7章 現代に生きる七三一部隊
第8章 がん検診を拒否せよ
第9章 早期発見理論のまやかし
第10章 患者よ、がんと闘うな
あとがき
うーん,各章の見出しが煽りすぎなんじゃないか.内容としては,まだまともだと思います.たとえば,
出版するのは良いのだけど・・・:近藤誠医師へお願い - 新・眠らない医者の人生探求劇場・・・夢果たすまで(参照)
上記の記事に記されているような,あらゆる抗がん剤が無効である,と近藤氏が主張しているかのような話は,著作を読めばそれが違うことがわかる.血液腫瘍など一部のがんは,抗がん剤の効果があることを近藤氏も認めている.ただし,目次にはやはり「抗がん剤は効かない」とあるので,誤解を生む.これはちょっと煽りすぎである.じっさいに著書を読むと,近藤氏の話はかなり感情論的である.怒りはよく伝わるのだが,あくまで科学的に議論しなければ意味がない.

 ここで,「科学的に議論」とはどういうことかが重要になってくる.科学の定義は,科学哲学における大きなテーマであり,定まったものはない.ここではむしろ,科学性の基準を考えるよりも,「これは科学的に考えることができていない」という形で反論を加えることにし,どのような改善が必要かを簡単に示してみよう.
 第1〜3章の冒頭を中心に,あるケースを紹介し,これを根拠に抗がん剤,あるいは手術が治療として妥当でないという主張をしている.このような「症例報告」は,医学という科学においては根拠としてあまり重要視されない.たとえば,がん診療ガイドラインには以下のようにまとめている.(参照)
症例報告,あるいはケースシリーズ(同様の疾患,あるいは同様の経過をとった患者の一連の報告)は,いずれもエビデンスのレベルとしてはVと分類される.このようなデータは,個人差やランダムなばらつきなど,バイアスを防ぐための手段をとることができない.このような内的妥当性の問題だけでなく,外的妥当性(この結果を他の施設,他の患者に適応できるか)についても問題が残ることになる.ゆえに,このようなデータを元に,抗がん剤診療を批判することは妥当でないのである.
 なお,この「エビデンスのレベル」という尺度が全てではないということは留意すべきである.システマティック・レビュー,あるいはRCT(ランダム化比較試験,あるいは本書では,くじ引き試験)が全てではない.倫理上,技術的,あるいは経済的な問題などで上位の試験が不可能であるシチュエーションは多々ある.一方で,医学という領域の特性上,喫緊にその病気に直面している人がいる,あるいは社会的にその疾病が問題になっている,という現状がある.こういう状況にあって,上位のエビデンスのみにこだわってデータや解析が提出されるのが遅くなることは避けるべきである.観察研究であっても研究デザインが適切であれば,妥当な結論を導くことができる.「エビデンスレベルにこだわりすぎる」ことは,避けなければならない.

 次に,問題だと感じたのは以下のような記述である.
理論的には,がんの性質は臓器によって大きく異ならないはずですから,これまでの議論の大筋はすべての臓器のがんに当てはまるはずです.しかし,それぞれの臓器の機能や,臓器が存在する場所との関係で,個別に考えなければならないこともあります.(p. 133)
これは,端的に間違っていると思われる.近藤氏は放射線科医であり,主な診療領域は乳癌治療のようだが,乳癌の臨床像と,胃癌のそれは明らかに違うだろう.確かに,「がんはみな,異常な増殖能を持ち,転移が問題となる」という原則は共有しているだろうが,そのような病理的なメカニズムではなく,臨床像については,明らかな違いがあるのである.乳癌は転移が早く,不良な転帰をたどることが多いがん種である.このロジックを過剰に敷衍すれば,治療的介入,特に手術や抗がん剤治療が有効である可能性のあるがん種をアンダートリアージすることに繋がりかねない.

 最後に,早期発見早期治療の話について.これについては,政策屋もかなり後ろめたいところがあるようである(聞いた話に過ぎないが).がん検診については,有効性が言われているものもあるが,諸外国においてもどこまでやるかについての合意は少ないようである.子宮頸癌あたりはエビデンスがあったように思うけど,また勉強しておきます.少なくとも,肺癌検診や前立腺癌検診におけるPSAの意義などには,疑義が提出されているのが現状である.このあたりについては,大規模な研究がなされるべきであろう.政治的に,検診を撤回するのが難しいにしても,検診事業の評価として,どのようなベネフィットがあるかの調査はかならず行われるべきである.

 余談的にひとつ,追加で指摘すると,陰謀論はやめようよ,と思うところである.検診や過剰な治療で,「医師や製薬企業が暴利をあげている」という話は,根拠に欠いた憶測でしかない.そう思う気持ちはわかる.ぼく自身,医師という仕事を本当にメシのタネとしか考えていないような人に会う機会があり,こういう人もいるのだと忸怩たる思いを抱いたこともある.近藤氏のこれまでの活動(乳房切除にかんして,外科医との対話など)を鑑みれば,怒りを抱く気持ちはわかるのであるが,これはプロとして腹の中に置いておくべきものであって,著書に述べるまでもないのではないかと思うところである.


 全体として,重要な指摘も少なくない. 米国や欧州のガイドラインと異なる診療を行っている施設もあると聞くし,政策的な未熟さ,科学的根拠への洞察も甘いところがある.このような現状に一石を投じるにあたって,恨みを述べた本を書くのではなく,近藤氏なりの科学論文を公開して欲しいと思った.新しい著作,『医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法』においては,その著作の性質もあってか,科学的とはおよそ言えないような展開であった.近藤氏の考え方を学ぶには,最近の著作よりは今回の『患者よ,がんと闘うな』を読む方がよいだろう.一般向けの本を書こうとしたら,「科学性」を担保するための内容がまず,削除されている印象だからである.

2013年3月19日火曜日

107回 医師国家試験の結果.

 出ました.
 合格してました.

 実家にいるので飲み会などには参加しなかった.親と話をして,師匠の教授,准教授に連絡をし,という感じ.Facebookで所属病院をこぞって登録していたが,まあねえって感じであった.有名病院の人ばかりであった.
 ソーシャルだなあと感じる春である.

 テレビで,「セカンドオピニオンSP」とかいうのをやっている.
 診断というのは難しいんだろうと思う.国試でもそうだったが,前医の誤診というものはよくあるもののはずである.必要なワークアップというものはあるにせよ,全体としては「後医は名医」だと思う.こういう事実,あるいは一種のバイアスを無視して,前医の誤診を批判するのもなあと思う.
 まあ,患者はそこまで考える必要もないのかもしれないけれど,やりすぎは嫌ねと思ってみてた.

 さて,医者として働くことがかなり確定した.同期のメーリスも,できた.
 やるべきこと,やれるだけのこと,せいいっぱいやろう.

2013年3月7日木曜日

アドバイスかあ.

 平穏な日々だが,刻一刻と引っ越しの日が近付く.今日はかなりのゴミを出したが,古い予備校時代の成績表やスケジュール帳なんかが出てきて,ああこんな日々もあったなあと思う.予備校に行ったことは客観的に言えばよいことだったし,人生が安定するためにも重要な期間だったように思われる.一方で,ぼくという人間が,ああいう受験勉強的な営みに対してコンプレックスを抱くことを,決定付けたような時期のようにも思う.まあ,今となってはどうでもいいんだけど.いやそう思い込んで,やり過ごしているけれど.

 さて,後輩へのアドバイスなんてのを,同級生がやっていた.SNSで.
 こう,キラキラしたことだけをアドバイスするというのは,楽でいいよなあなんて暗いことを思っていた.明るく生きにゃいかんなあ.
 余談はともかく,じっさいのところ,明るい話はアドバイスとしては効果があるんだろう.無闇に現実的なことを言うより,夢を語る方が人を魅くのは一般論として正しいだろう.一方で,当然のことながら「先輩だからこそ語れる現実的な話」というのにも一定の効果はありそうなんだけど,どうなんでしょう.当然,ちゃんと明るくオチはつけるんだけど.

 自分のメッセージとしては,「考えること,自由に生きること」を思っていた.弁当先生の著作とだだ被りするんじゃないかなんて,ちょっと自惚れつつも思うのだけど.
 医学部というところは,まさに実学をやるための場所といっても過言でなく,教養というものが殆ど省みられない.大学なので,所定の教養科目を修めることにはなっているんだけど,教養というものが何なのかということを考える機会は殆どないといっていい.
 そのあと,まずまず大量の暗記をやって,実習をやって,卒業試験・国家試験を受けて,6年は終了.
 だいたい,正味4年くらいで医学部のコンテンツ自体はさらうことができて,6年間っているのかなあというところではある.

 教養がない,というととても抽象的なので,語弊を恐れずもう少し,問題をspecifyして言うと,

  • (世の中を回している)文系知がない.
  • とはいえ,理系とはいえ,科学をやらない.

ということに集約されそう.文系知というのもまあ適当に言ってて,法学なり経済学なり文学なりをやるか,リベラルアーツを普通にやるかというところをイメージしているけれど.
 理系の分野としての医学部において,2つめの方が重くて,医学はもちろん科学の一分野なのだけど,そういう意識を形成する場がないというか.医学生が想像する科学というと恐らく,高校物理や高校化学でやるような,20世紀以前の自然科学の内容をイメージしているのではないか.
 医学は,もちろん古典・近代的な科学観に立脚してやれる部分もある.一方で,昨今重要性がいわれている「臨床試験」を考えたりする場合,疫学理論,統計学,確率論を利用した考え方でもって,取り組まなければならない.また,予防医学なんかを考えるときも,同様である.ヒトという複雑系,また個人差をもつ個体を対象とした実践は,演繹的な思考ではどうにもならなくて,もっと別なところに論理的基盤を置く必要がある.
 「医学は進歩しました」とよく言うけれど,かつてのように「菌が原因だから,抗菌薬を使おう」みたいな発想で済むような,"古典的な"医学から,「数千人を対象にした臨床試験で,どちらがどれくらい寿命延長効果がある,またQOLやその他の指標に効果がある」などといった,きわめて統計的な研究へと変貌しつつある.

 また,さらに言えば,一般の人々についても,そういった医学の姿を伝える必要があるように思う.卑近な例でいえば,たとえば喫煙のリスクの説明(リスクというのは,統計学的な概念である)や,予防接種とどう付き合うか(拒絶する自由はあるけど,リスク/ベネフィットをうまく説明する必要がある)などといった領域において,科学をどうコミュニケートするかという実践の問題もある.

 科学をまなぶということは,特にアドバイスとしたいなあと思うところである.ただ,どうやってと問われると結構難しいんだけれどね.

2013年3月5日火曜日

医師の偏在を考える

 元ネタはYosyan先生の有名なブログから.

現研修医制度による医師偏在の原因 - 新小児科医のつぶやき (参照)
 当該エントリは,
研修医制度は2003年度卒業生に対し導入され2004年度から始まっています。2012年度時点で9年間が経過しています。現研修医制度についての評価は様々ですが、悪い方の評価として医師の偏在を促進したと言うのがあります。良く書き立てられる大都市部への医師の偏在です。
として,2004年度から始まった現臨床研修制度の前後で,医師の偏在がどのように変化したのかをみるものである.
 偏在をみる指標として,所与の期間(当該エントリにおいては,旧研修医時代:1994年度~2002年度,現研修医時代:2002年度~2010年度としている)における医師の増加人数に関して,以下のような指標を用いている.

 人口加重平均医師増加数 = (所与の期間における全国の医師増加数) × (県人口/全国人口)

この人口加重平均医師増加数が,「その県の人口規模に比して,全体の医師増加数からみて平等な医師増加数」をあらわす.実際の医師増加数から,この加重平均を引くことにより「期待増加数からの差分」がわかるというわけだ.結果はYosyan先生のブログを見ていただくとして,こちらでも追試的に計算をしてみたところ,若干の誤差があったものの同様の結果を得た.旧研修医時代についてはこちらでは計算をしなかった.以下のようなグラフを描くことができる.

差分.縦軸の単位は 人 である.
また,当然のことながら東京都の都市規模(人口)は他県の比較にならない程大きいことが自明なので,念のためこの差分値を人口で除したものも以下に掲載する.
差分を各都道府県の人口で除した.相対差分といえるだろうか.

 さて,この結果からどういう分析が可能かというと,Yosyan先生の元エントリにもある程度述べられているが,以下のようなものがあろう.
  • 東京都への医師の流入規模(絶対数)は,神奈川県(全国2位)のそれを遥かに越え,4倍ほどもある.
  • 東京都への流入によるものと思われる,その他の地域での医師の不足(差分値マイナス)が著しい.
  • 相対差分をみると,沖縄県での増加も著しいことがわかる.
 このデータのみでは,あまりに簡単なデータでしかないということもあり,上記のようなことが言える程度であろう.とはいえ,ひとつめの東京都への集中が相当数あり(これは,絶対数をみるべきなのだが),明らかにこれによるものと思われる全国規模での差分値マイナスがあることは特筆に価するだろう.これまで「大都市への集中」と言われていたものが,実は「東京への集中」と言っても過言でないといえるからだ.
 さらに,以下のようなことが付言されている.
しっかし東京が相手となると、これに対抗する魅力を作り出すのは実際のところ不可能でしょう。そうなれば、対応策は東京が溢れ出すのを待つしかないになります。神奈川はその恩恵を幾分は受け始めていると言ったところでしょうか。ただ確かrijin様の試算では、この東京でも近い将来医師不足が起こると予測されていました。そうなると東京の吸引力は私の寿命単位では無尽蔵になりますから、打つ手はないかもしれません。
医師の移動を,「不足の有無」という観点から考えれば, 東京都は今後急速に高齢化していくことが予測されている.例えば以下のような記事がある.

大都市 医療クライシス ①高齢者の急増で病院は・・・ - NHK ONLINE (参照)

高齢患者の増加予測です。
2011年から2035年にかけて、東京では18万人、神奈川では11万人、埼玉で8万8千人増加するなど。
1都3県で合計およそ44万人、患者が急増することが分かりました。
患者が特に増えるのは、大規模な団地やベッドタウンの近くにある病院です。
高度成長期に移り住んできた団塊世代が、一気に高齢化していくためです。
 このように見れば,東京都こそ医師が不足していくとも言え,そうなれば東京都の吸収力は他の地方に比べれば無尽蔵に膨れ上がるともいえる.実際,地方では限界集落等の問題点が依然あるが,高齢化としては一巡しているような印象も受ける.こういった状況で,医師という限られたリソースをどう配分するかについて議論がある.

 以上のようなファクトに基づいて検討すると,まずマクロの観点からすれば,都市部の医師不足というのは事実あるだろうから,医師の配分が必要というのは恐らく事実である.一方で,たとえ人口の少ない地域であれ,医療サービスは社会的インフラという面をもつわけだから,そのような地域を切り捨てることは社会的道義に反することである.
 また,ミクロの観点,すなわち若手の医師がどのような思考によって,大都市を選ぶかを考えてみる必要もある.ここで示唆的なのは,上記グラフにおける沖縄県の伸びである.絶対数では小さいが,人口比(相対差分)でみれば東京都に匹敵する程の医師を集めている.これは恐らく,沖縄県の人気研修病院の効果があるのではないか.ゆえに,医師の行動決定原則として,大都市志向というのもあるだろうが,同時に「よりよい研修病院」を求めている姿も垣間見える.
 ここからは憶測になるが,実際のところ「地元で研修したいが,いいと思える病院がなくて」とか「経験を積むために都会に行くけれど,ゆくゆくは地元に戻りたい(が,戻るべき病院があるのか不安)」などと言った声を少なからず聞くのである.また,各自のキャリアパスを描くにあたって,「大学院進学をするなら,母校に帰ることもやむなし」としている者も少なくなかった(これは,たとえば新設医学部などでは,厳しいかもしれないが).肌で感じるところとしては,大都市で一生やっていく,という程安直な医学生は,それほど多くないのではないか.本当に憶測だが,真面目で正義感のある学生もかなり多いと感じるので,地域医療の将来が真っ暗,というわけではないのではないか.
 これらの憶測から,ミクロ的観点に立てば,「やむなく都市部を選んでいる」という若手が多いのではないかと考える.

 このような現状への処方箋としては,マクロ的手段では,「地元に帰りたい」とする若手を応援しなければならないだろう.それはとりも直さず,地域の病院を改善することに尽きる.難しい問題だが,大学医学部と行政セクタの連携なども望まれるところであろう.たとえば症例の経験を増やすために,医療施設の統廃合や,がんセンターなどの集約的な施設を設けるなどの対策が必要だろうし,地域,医学部の枠を越えた連携が必要だろう.

 とはいえ,このような打開策は,決まって聞き覚えのあるような,新奇性のないものばかりである.自分で書いて残念になった.

 ぶっちゃけた話,若手においては,ベテラン勢のご機嫌取りではなく,自分で自分にとっていい病院を作るというのをミッションに掲げるとよいのではないか.自由はむしろ,若い側にあることだし,教授に媚びを売らずとも,自分でやっていけるのではないか.

 この問題は,まさに我々若手世代に振りかかろうとしているものである.ベテランの方々の中にも真面目に考えて下さる人もあろうが,本当に危機感を覚えるのは,私たち自身である.当事者でない者に変革を求めるよりも,まずは自分からというつもりでやっていこうと思う.

2013年3月3日日曜日

Untitled/quoted

A Theory of Justice, John Rawls, 1971

Justice is the first virtue of social institutions, as truth is of systems of thought.

2013年3月2日土曜日

‘Awash in False Findings’ Is most scientific research factually distorted?


「間違いだらけ」ほとんどの科学研究は事実上歪められている?
Newsweek,Feb 22, 2013.(参照).

 全くの私見だけれど,もうほんと,scientific revolutionなるものが起こっているんじゃないかと思う.特に医学研究の発達は目覚ましく,それは今日的な,社会的な問題であるということ,また人間の経済活動として,「カネになる」領域であることもある.かつてはそれが,武器開発の技術だったのだろう.原子力や,量子力学.いま,医学が爆発的に進歩している.あるいは,"normal science"から一気に開花している段階,科学の危機の状態なのかもしれない.確率論,統計学に立脚した帰納のやり方,ロジックの構築.こうした新しい科学の概念の形成に伴って,現役の科学者はその方法論レベルで混乱しているのだろう.
 こうした新しい科学の潮流の中で,さまざまな科学研究の質が危機的な状況になっていること,統計学的手法が誤用され重大なバイアスが放置されていることを指摘した記事である.一方で,それらへの対策については非常に弱いのが現状である.まさに科学が大きく変貌しようという時機なのではないかと感じる.


 Daniele Fanelli氏という人が,Nature誌に以下のようなことを書いたらしい.
“an epidemic of false, biased, and falsified findings” where “only the most egregious cases of misconduct are discovered and punished.”「間違っていて,バイアスがかかっていて,改竄された発見の蔓延」であり,「それらの不正のうち,一番とんでもないものだけが発見され,罰せられる」
Fanelli氏はエディンバラ大学で,どうしてこれほどまでに多くの科学研究が間違いであると判明したのかを解明する研究に従事している.

 科学研究が正しくないねというとき,古典的というかまあぜんぜん古典的でもなく未だにそう信じられてるところがあるけど,たとえば医薬品研究において,製薬企業なんかが研究をさせるとバイアスの原因になりますとか,悪い科学者が意図的に,用意周到に不正な研究結果を発表したんだとか,そういう事例を考える.
For a long time the focus has either been on industry funding as a source of bias, particularly in drug research, or on those who deliberately commit fraud, such as the spectacular case of Diederik Stapel, a Dutch social psychologist who was found to have fabricated at least 55 research papers over 20 years.
もちろんそういう研究はダメなのは事実だけれど,今日,これほどまでにでたらめな研究は,バイオメディカル分野が多く,またその内容は,研究者にとって不都合なデータを無視したり,重要な統計学的手法を誤ったりすることに起因すると分析している.スタンフォード大学の,医学数学が専門のJohn Ioannidis氏も,出版されている殆どの研究は間違いであるとして,統計学的に手厳しく攻撃した論文を2005年に出版している.
Fanelli氏は以下のように言う.
“There’s little question that the [scientific] literature is awash in false findings—findings that if you try to replicate you’ll probably never succeed or at least find them to be different from what was initially said,” says Fanelli. “But people don’t appreciate that this is not because scientists are manipulating these results, consciously or unconsciously; it’s largely because we have a system that favors statistical flukes instead of replicable findings.”
「(科学)文献が間違いの結果だらけであること,すなわち,仮に反復実験をしようとしても決して成功しないか,あるいはもともと言われていたのと全く別の結果に行き着くもの,であることはほとんど疑いようがない.」
「しかし,科学者が意識的にせよ無意識的にせよ,これらの結果を操作しているからではないということは,よく知られていないのである.実のところ,反復・引用可能な発見より,統計学的なまぐれ当たりの方を採用してしまうシステムを採っているためにこのような事態になるのである.」

 このような実情を受け,Fanelli氏は以下のような提言をする.
This is why, he says, we need to extend the idea of academic misconduct (currently limited to fabrication, falsification, or plagiarism) to “distorted reporting”—the failure to communicate all the information someone would need to validate your findings.
だから我々は,アカデミックな不正行為(現時点では,偽造,改竄,剽窃に限られるが)の概念を押し広げる必要があり,「歪曲報告」すなわち,その結果を実証するのに他人が必要な全ての情報について,コミュニケーションに失敗したもの,という概念に変える必要がある.
こういった中で,特に影響の大きなバイアスとして挙げられているのが,アカデミックなジャーナルが,ポジティブな結果を出した研究のみをパブリッシュする傾向があるというもの.出版バイアスとよく呼ばれるもので,疫学領域ではお馴染ではある.なかなか逃れにくいバイアスではあるが,これを克服するための策も徐々にとられつつあるらしい.効果がないとした論文にも目をかけるとか,科学的方法論として,優秀なものに高い評価をつけるとか.

 最後に,Fanelliは以下のように言っている.
“We need a major cultural change,” says Fanelli. “But when you think that, even 20 years ago, these issues were practically never discussed, I think we’re making considerable progress.”
「我々は,大きなカルチャーの変化を遂げる必要がある.」
「しかし20年前のことを考えれば,これらの問題は実質全く議論されていなかったわけで,我々は大きな進歩を遂げているのだと考えることもできるだろう.」

2013年3月1日金曜日

『科学哲学』を読む.


科学哲学,ドミニック・ルクール,文庫クセジュ,2005

 科哲(科学哲学の略,かてつ)を追い掛けて早何年か,まだまだその実態はわからず勉強中.
著者,ドミニック・ルクールは仏人の科哲研究者.以下Wikipediaより(参照).
 ドミニック・ルクール(1944年2月5日-)は、フランスの哲学者・パリ第七大学教授。専門は科学哲学・科学史。パリで生まれ、1965年に高等師範学校卒業、1966年に哲学の教授資格取得、1980年に文学博士取得。1989年にパリ第七大学教授物理学部教授に就任後、1986年から1988年まで国立通信教育センターの所長を務めるなど幅広く活躍。フランス流科学哲学(エピステモロジー)の嫡流をくむ人物。レジオン・ドヌール勲章シュヴェリエ章受賞。彼が監修したDictionnaire d’histoire et philosophie des sciences, sous la direction de D. Lecourt (1999, 4e réed. Quadrige/PUF, Paris, 2006)は定評がある。
このとおり,フランス流の科哲研究者ということで,じつは初めて知るようなことも結構あった.(意図したわけではないが)米英の科哲を中心に勉強していたようだったので,それはそれで興味深いものがあった.これまで一応,ひととおりのことは勉強してきたはずだが,こういったわけで今回の読書は結構初心者のような気持ちで取り組んだところがある.
科学史の通史と,最後にフランス科学哲学についての話という内容.面白いなあと思ったのが,

  • マッハまでと,マッハのあと
  • ヒューム・ポパー周辺
  • クーン周辺
  • 仏の科哲

あたり.どれもズッシリでぜんぜんまとまらず,つまり理解が追い付いていないんだろうなあ.

マッハまでと,マッハのあと

まあ別にマッハで区切ることもないんだけれど,マッハの話は勉強になったのでここで取り上げてみる.
 もともと科学哲学の黎明として,オーギュスト・コントの最初のテーゼがある.「偉大な基本法則」,すなわち「三段階の法則」である.われわれの認識の一々の枝が次から次へと3つの異なる理論形態を経過していくというもので,まず神学あるいは虚構の段階,ついで形而上学あるいは抽象の段階,最後に科学あるいは実証の段階である.2段階めの「形而上学あるいは抽象」とは,精神が超自然的能動者を抽象的な力,つまり,最後には自然という観念のもとに集束するというもの.これは,神学における神が,自然に変わっただけで本質的には大差ないと言われている.
 2番目のコントのテーゼは,合理的予測が実証的精神の主要な性格を成す,というもの.すなわち帰納の重要性を説いたわけだ.そして3番目のテーゼ,科学とは,「人間の自然に対する行為の真の合理的基礎を与えるはずのもの」である.
 一連のコント哲学において重要なのは,存在論からの解放であり,反形而上学的テーゼである.こうした反形而上学的テーゼが推し進められて,「実証主義」という考え方が紡がれてくる.

 それから,エルンスト・マッハ.
 その著作で,古典力学(ガリレイ,デカルト,ヨハネス・ケプラー,ニュートンなどによる)の創設に立ち返って,「機械論神話」がどのように形成されてきたかを示す.これは,古代宗教の「古代神話」のアナロジーでもある.じっさいのところ,古典力学の創設のテクストが忘れ去られたまま,その当時の科学が進歩していったからこその「神話」なのであるが.その内容は,力学に「物理学の他のあらゆる分野の基礎的土台」を築かせようとする先入見である.実際はそれが「意図的にあるいは無理やり作られた抽象」でしかないのである.
また同時にマッハは,科学研究における自分の着想について,自身を実証主義者あるいはありきたりな経験論者だと考えている者に対しても以下のように言う.
「科学者の大部分は,科学研究における方法にみずから携わっておきながら,帰納をその主要な方法であると考えている.まるで,個々別々に与えられる諸事実を分類整理することだけが科学者の仕事である,とでも言うかのようである」.マッハはさらに言う.「この作業[帰納]が重要であることはもちろんだけれども,それだけで科学者の仕事がすべて尽きてしまうわけではない.科学者であれば何よりもまず,説明すべき特徴とその関係を見出さなければならないのであり,この作業のほうが,すでに知られていることをクラス分けすることよりもずっと難しいのである」.
また,
 ニュートンの手続きを注釈しながら,マッハは最後に書いている.「直観的で生きた内容を概念に与えるためには,自然を理解する[包摂する](comprendre)前に,想像力においてとらえる(appréhendre)ことが必要である」.マッハは,実際,科学的直感の神秘的な性格(das Mysteriöse)を称賛しさえする.
非常に混乱してくるところなのだけど,簡単にまとめてみよう.
 コントは,それまで主流だった神や,超越的なものの存在に依存したやり方ではなく,経験的事実に基づき理論や仮説,命題を検証する立場をとった.これが実証主義とよばれるものである.一方マッハも,彼の時代の科学者が,古典力学を「神話」のように崇め,自らの科学を矮小化していることに警鐘を鳴らした.「機械論神話」が,コントによって打破されたはずの形而上学的な営みの類型にすぎないことを指摘したのである.
 入り口としては,実証主義とマッハは似るが,さらにマッハは,科学研究は帰納的なやり方にとどまるべきではなく,もっと直観的で,創造的な科学を志向していたのである.この点でマッハと単なる実証主義,経験主義は異なるものである.

(執筆途中)

2013年2月28日木曜日

『考える生き方 空しさを希望に変えるために』を読む.


考える生き方 空しさを希望に変えるために,finalvent,ダイヤモンド社,2013

 弁当先生(finalvent氏のことをこう呼ぶ界隈もあるらしい…?)のブログを読むようになったのはそう昔ではなくて,いろいろレボリューションが起きた3年前くらいのことだったと思う.ちょうど,Twitterをはじめた直後だったか.というかブログ文化とか,はてな文化とかに曝露されたのもそのへんで,昔から知っていたというわけじゃない.ブログ自体は,2003年くらいからやってたような気がするのに.ひええ.
 コアなファンというわけじゃない.また,国際情勢なんかの内容が多かったりするもののそのエントリの内容が理解できてるかとかかなり怪しい.そういうちゃんとした理解が伴っていないんだけど,それでも彼の文章とか,タフに学んでいく姿とか,そういうのが好きでそれなりに追っていたんだと思う.

 単純に,ひとりの人間の人生の物語,みたいな感じで読んだ.淡々と読んだような気がして,ほんとうに小説みたい.示唆とか教訓とか,勉強とかそういうんじゃない読書として読んだのは久しぶりだったな.

 仕事・家族・恋愛・難病・学問.
 ひとが生きる人生のコンテンツってどんなもんだろうと思うけれど,まあこんな感じになるんだろうか.ぼくはまだ20代中盤だから,物語としては網羅性が低いのだろうけれど.Twitterで話していたけれど,弁当先生ってこんなに…こう…子どもっぽかったんだねっていうのはありました.大学院を2回中退ってどうなんですかね….
 ひとの評価,っていうとなんか語弊がありそうなんだけれど,たとえばこの人生はすごいねとか,あああれはクズだよねみたいなのってどうやって決まっていくんだろうって思った.ありきたりな感じでいえば,そのひと固有の人格とかに加えて,社会的な業績,とかなのかな.そのひとと親しくない限り,たとえば就活の場面とかでは人格の推測って限度があるので,社会的にrigidな業績とかで測られやすいんだろうか.たとえばぼくは,友達をどう見てるだろうか.彼女のことは?

 あるいは,そうやって外側からひとの人生を見たときと,そのひと自身がその人生に下す評価ってどんなだろうというのも考えた.弁当先生的には,自身の人生は「失敗だったが幸せだった」みたいな感じだろうか.
 ぼくは4月から病院で働くけれども,たとえば病院へ救急車で運ばれてくる人にたいしては,同情というかかわいそうね,みたいな感情をいだくことがある.日頃の不摂生がどうとかいうつもりはあまりないんだけれど(じっさい,不摂生でも病気になるかどうかは最終的には確率論なので).朝起きて,さて朝御飯にしようと思ったら右手が動かない,話せない.脳卒中だってなって,病院に運ばれてくる人.結果的に,残念でしたね,みたいな.
 人生における病気というのも,ランダムにその人にやってきて,不幸をもたらすと思う.そういうのを織り込んで,人生やっていくしかないし,そのあたりを自分自身でどう考えるかというと,まあ受容するしかないんだろうと思う,最終的には.

 自分自身のことをおもえば,自分の人生に対して自省をしたことはあまりなかったように思う.今と,これからについてにしか興味がないというか,このあたりでいっぱいいっぱいだったように思う.まあ,まだ若いんだしという気持ちでもいるけれど.

 ぜんぜん感想文になっていないけれど,とりあえず,弁当先生に興味がない人でも,第5章くらいは読んでみてもよいのでは,と思いました.

2013年2月27日水曜日

無題・引用

科学哲学,ドミニク・ルクール,文庫クセジュ,2005

 医療実践は,カンギレムの反省を「規範」「正常性(規範性)」「規範形成力」という概念を再吟味することへと向かわせたのである.カンギレムは,近代医学を1つの科学として称揚する支配的な実証主義の流れに逆らって,正常が逸脱(偏差)に対してつねに二次的であるということを明らかにした.カンギレムは,統計的に確立された平均として規範を客観主義的に理解することはすべてある不明瞭さに基づいており,その不明瞭さが順応主義的な目的のために,規範の確立の意味そのものを失わせてしまうということを示すのである.彼は,治療学がすでに与えられた生理学的な知の単なる適用にはなりえないだろう,ということに注意を喚起する.フランスの外科医であるルネ・ルリッシュ(1879~1955年)からカンギレムがかりた言葉によれば,医学は一つの技術,すなわち「複数の科学の交差点にある技術」であり続ける.個々人は固有の来歴に基づいて,比較し判断することで自分が病気であると宣言するのだが,結局のところ,医学はそのような個人の訴えが医学の原理のなかにあることを想定している.では科学者がそれぞれ依拠していることに気づくこの生命の諸価値から,認識することの意味を画定する手段はないのだろうか.カンギレムはベルクソンに反対して「科学は生命の向こう見ずな企てであるときだけ,みずからの意味をもつ」と述べている.生命は,保存と拡大というみずからの目的に到達するために,概念という重要な形式を想像するのである.ところで人間の固体は,それぞれ独自な生物である.その規範形成力は,他の生きている人びととの共通の尺度に頼らずみずからを肯定し,自分を貫く力の関係から確立される新しい諸規範を想像する一つの能力になる.したがって,ニーチェのような仕方で健康を定義し,固体が新しい地平を拓くために,みずからの限界を乗り越えることを肯定し引き受ける危険として,健康を定義しなければならないのではないだろうか.

2013年2月26日火曜日

昨日分

 東京にしばし滞在していたが,昨日帰った.帰りのチケットを,日程間違って予約していたという残念っぷりだったが,何とかオッチャンの慈悲によって帰ることができた.どうしようもないなこりゃ.

 母親と戦闘中だったが,一応持ち直したかなあという感じ.電話をしました.正直怖かった.まあこれはおいおい.書くんだろうか.

 弁当先生の『考える生き方』を読んだ.手厳しい評にどちらかというと同意な感じで,正直「なんだこれは」という印象であった.弁当先生が好きな人には読んでていいと思うけれど,ブログのような切れ味とかを期待する本じゃないです.示唆的なところはそれなりにあって,それも,弁当先生だから説得力を持つような内容もみられて,収穫は少なくないと思ってるんだけれど.55歳といえば,ちょうど両親がそれくらいか,それを越すくらい.オヤジが書いた本だと思うと結構いいよ.まあぼくのオヤジはそういうキャラじゃないけれど.
 また感想文は書こうと思う.

 はあどっこい.

2013年2月22日金曜日

当ブログにおける医療政策ネタの今後. (2)

 テキストは、日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011 である.
  1. 医療政策と社会正義 p. 7
  2. 制度および政策とは何か.pp. 19-20
  3. 医療保険制度の沿革
  4. 医療供給制度の沿革
  5. 国民皆保険制度の成立
  6. 医療保険制度の基本構造と問題点
  7. 混合診療をめぐる議論
  8. 医療供給制度の基本構造と問題点
  9. 診療報酬制度の基本構造と問題点
  10. 医学教育について
 一通りのテーマについて述べておきたいところだけれど、内容が膨大すぎて単なる写経になりかねないので、そういう場合は適当にテーマをspecifyして述べようと思う。

当ブログにおける医療政策ネタの今後.

 差し当たり、日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011 をテキストにして、主だったネタについてまとめながら取り上げ、時事的なものなどを織り交ぜながら書いていこうと思う。
あらゆる政策的テーマがそうであるように、医療政策もまた複雑系であり、いたずらな視野の限定は論点を失することに繋がる。常に俯瞰的な視点から状況を分析することが求められる。一方で、医療現場の感覚を失ったような分析は不要であろう。大学の学者のような分析ならば、このブログが取り上げる必要性も薄いだろうから。
 それから、自分みたいなのが医療政策を考えることについて。まあ、よくはわからないんですよね。自分自身が事象をマクロに考えることが好きだったり、現場レベルじゃどうしようもない事態になっている(らしいということを聞いた)ことだったり、そういう動機らしいものはあるんだけど。これが唯一絶対の自分の生きる道なんだっていう自信なんてのは皆目ないなあというのが素直な現状だと思う。
 何で医学部を受験したんですかって聞かれたとき、「国際医療に憧れて。」って言っていたのは真実なのだけど、結局今はこういうことになっている。カッコいいなあとかそういう、青い発想しかなかったけれど、今だにそのままなのは、一周まわって面白くもある。こういう考え方をするようになったのも、あるいは医師免許という最高に潰しの効くものを手に入れるからなのかもしれない。それってちょっと自己嫌悪だけど、美しく生きるだけが目的でもないしどうってことなさそう。社会貢献をしたいというのは、どうやらかつて(「国際医療をやりたい」と思っていた頃)からあって、あらゆる活動や人生のドライブになっているのは、こういう感情のような気がする。よくよく分析してみれば社会貢献というのは方法論に過ぎなくて、じっさいしたいのは、自分がたのしいと思うことらしいというのもあって、純粋人間じゃないのだが。
医療政策というのもひとつの学問のように思うが、西田幾多郎先生は以下のようなことを言ったらしい。
 
学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。
 
 文脈をちゃんと分析せずに引くのは愚かしいが、功利的に学問をやれというんじゃなく、life、すなわち人生とかくらしとか、そういう人間っぽい営みをひっくるめたものによりそって、学問ってあるべきなのかなあと思っている。
 
 表題とは全く違う内容となってしまったので、次のエントリに今後予定しているネタを書こうと思う。
 

2013年2月20日水曜日

『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』を読む

「私」の秘密 哲学的自我論への誘い,中島義道,講談社選書メチエ,2002

 「なぜ私は私なのか」という問いを発したことがあるかと問われれば、ありませんでしたと答える人間だけど。確かに言われてみれば「私とは何か」というのは答えにくい問いだった。問う必要があるのかよという無粋な質問はやめよう。あるいは、「私」というものを失いそうになった時、思い出せればいいことがあるかもしれない。

 あとがきに述べられているように、

私とは、現在の思考や近くの場面にではなく、過去を想起する場面で忽然と登場してくる

ということなのだそうだ。そういうことが、つらつらと述べられている本である。いやいや、文体は相当読みやすい本だと思うんです。理解もしやすいしカントなんかより遥かに楽。まあ哲学書が読みやすさを売りにするっていうのもあまり聞かないけれど。

 御託が多くなりそうなので、さっさと本題に入ろう。

「私」を安直に前提すること、あるいは「開かれた問題 open question」について

 特に「私とは何か」という命題に向き合う時、「私とはAである」のような形で回答するのは論理的におかしな話である。それは「なぜ、Aは、私なのか」という新たな問いを提示できる。与えられた命題は「私とは何か」という形だけれど、これは実際のところ「なぜそうなのか」という理由も合わせて問うている。この「なぜ」に答えられない限りにおいて、如何なる言葉を尽くして「私とはAである」のような回答を提示しても、「なぜ」への回答たり得ない。だから、「私は考える、ゆえに私は存在する」という有名な文句も「私とは何か」の問いの答えとはならないのである。

 こういう命題はヒュームによって「開かれた問題 open question」と呼ばれ、ある言葉を様々な別の言葉に置き換えて説明しようとしても、結局「なぜそれは、それなのか」という問いは"開かれたまま残る"のである。結局のところこのような問いは、原理的に閉じることのできない問いなのである。このような問いを閉じようとすると、無理な言葉の武器が必要になってきて、現象学はこのような問いを無理に閉じる営みであるともいえるのである。

 このような問いに答える唯一の方法は、問題の構造を精緻に誠実に記述していくことである。結局のところこれがこの本の肝であって、「私とは何か」を問うにあたって、「私」を安直に前提して論点先取の誤謬に陥らないこと、「開かれた問題」にただしく向き合い説明することが本題である。このこと自体は「私とは何か」という問いとは別だけれど、考えるに当たって、多くの場合陥ってしまう陥穽らしい。まずはこれを丁寧に避けながら説明を試みることが重要だ。

知覚の現場に私はいない

 上記の流れからいうと、「今現在の知覚が私のものだという理由はないよ」ということになると思う。意識のあるなしや今かどうかが、「私かどうか」を決めるものではない。

 自分の経験や体験、みた夢、その他の知覚を、あとで「私は…した」という過去形の文章で作成できる者が私なのである。私が酩酊していても、無意識下に夢を見ていても、それら様々な感覚内容を総合的に統一することができる者が、私なのである。こうした作用の主体が超越論的な私すなわち「超越論的統覚」なのだ。

 そういうわけで、知覚の現場に私はいないのである。

結局、私とは何か

 息を殺して潜んでいるうちに、虎は去ってしまいました。私はその場から無我夢中で逃げ出す。そして、駆け込むように安全な宿舎に戻り、あらためて先ほどの恐怖体験を思い出す。安全な室内のベッドに横たわりながら、周囲の近く風景を沈ませて、そのうえに先ほどの虎が出現した光景を想起します。そして、そのとき忽然として「私」は登場するのです。

 私は「怖かった」のです。<いま>ほっとしている者は、あのとき(1つ前の<いま>)は足がすくみ息もできなかった者であり、その二重の異なったあり方における同一性をこの<いま>の側から端的に確認する者、それが私なのです。私はあのとき怖いという体験をもったのではない。そうではなく、<いま>あらためて「怖かった」と語ることによって、その怖かった者は「私だった」ことになるのです。

 過去の知覚内容といまとを繋ぐものとしての私、膨大な過去の経験を引き出す窓口としての私、そういう、過去のことがらから立ち現れてくるものが私であるという。

 いや、じゃあなんで、それが私なんだといえるんだ?

国家試験後、心境の変化について

 国家試験から10日ほどが過ぎた。今回の国家試験の難易度がどうであれ、大きな試験が終わったのは事実で、人生への向き合い方が変化しているのを感じる。あるいは、すでに変化の兆しは以前からあって、それを感覚したのが今頃なのかもしれないけれど。
 医学部での問題解決や思考というのが、如何にproblem-basedで、実学的かということが徐々に分かりだしてきた。最近読んだ中島義道の思考がこのような考え方とはまるで違っていて、問題の解決を前提しない思索を展開しているのに、ちょっと着いていけなかった部分があった。何が実で何が虚かということは議論するつもりはないけれど、6年間かけて訓練されてきた実学的な思考回路をどう保って、また新しい学びに繋げていくべきかというのは皆目わからない。また私自身の人生に対して、何らかの社会貢献みたいなものを目標に掲げて自分自身の外側に(も)生きる理由を見出すべきか、あるいは先日のエントリのように自分がたのしくやっていければいい、みたいなスタンスを取るべきかでちょっと困った。
 

これまでの感触としては

 比較的幅広く学んできたつもりで、そういう立場から言ってみれば、実学と虚学は結構違うらしいことはわかる。哲学と言ってもいろいろあって十把一絡げにはできないけれど、例えば「私とは」みたいな命題を考えていくような哲学は、この際勉強しきれない領域だなという気はした。
 一方で、自分のたったこれだけの少ない経験値から述べているだけで、確定的なことは何も言えないのだけど。実学と虚学は確かに違うけれど、隔絶されているものでもないような気がするし、幅広く学んでフィードバックが得られるならばそれには意義がある。
 読書や学習の方向性を自分自身で決めていけることは重要なのだけどなかなか難しい。とはいえ信頼できる師匠はそう多くない。情報収集に時間をかけるべきだが、さらにその前提として十分な勉強時間を確保し、また勉強へのモチベーションも保てるよう計画設計しないといけないなと思った。
 

師匠の不在について

 これについては打開策はなくはないので、自分の行動如何によるんだけど、現時点では問題としてある。乱読する余地がなくなってきたというのもある。
 

仲間の不在について

 これは慢性的にそうだったのでどうしようもないことなのかもしれない。いや実際のところ志を同じくする人は多からずいるんだけれど、ちゃんと繋がりきれていないところがあるというか。しかし、閉塞的な世相を反映してか、あるいは医学部ってそういうところなのかわからないけど、全体的にみて思想のバラエティに乏しいし、異端を攻撃する傾向が強いので、集団の中で仲間を見出しにくいというのは実際ありそうではある。
 まあ、おそらくわかりやすい仲間というのは方向性が先鋭化してきてやっと、見出されるものなのかもしれないし、今はそういう先鋭化をなるべく避けようとしているので、現状としてはこんなもんかなというところではあるんだが。
 

これから

 なんというか、区切りがついたからこそ、タイムリミットじゃないが先を計算して何かをしなきゃという焦りが顕在化したように思われる。確かに社会人生活は、非プライベートのところで束縛が多く、可処分な時間は少ないというのはわかる。一方で極めて効率的に生きたい、というわけじゃないし、ここまでやらないと死ねないというほどこだわっているわけでもない。ただ具体的には、今後5年程度の臨床経験である程度現場を実感して問題を抽出して、次のステップに行きたいというのはある。目下決まっているのはその5年ほどなので、差し当たってはこの5年間をどうするかくらいは考えた方が良さそうではある。
 
 ああ、心境が変化したっていう程、重篤なものではなかったっぽいな。それはそれでよかったけれども。

2013年2月19日火曜日

近況など.

 国家試験が終わり、平穏な日々。勉強部屋の友人と北海道へ行き(3泊4日)、東京にしばし滞在する。神奈川県での初期研修に向け、新居を契約する。初期費用の関係で、キッチンを妥協し一口コンロのところになる。読書を再開、中島義道を読むけど結構キツイ感じ。現象論とか勉強してないし仕方ないけど。ていうかこのへんの哲学界隈ってどこまで考えようか悩む。どう考えたって沼だし。また、途中で投げてたKuhnも読み始める。こちらは英語が結構高度で、これまた相当時間がかかりそうなのが予想される。
 卒業旅行で海外に行かないと、異端扱いなこの界隈で、自我を保つのに必死の感がある。下らないなあとわかってはいるけど、人と違うことにこうも抵抗を抱くのだなぁと思うにつけ、何だか変な感じがする。改めて思い返してみると、大学時代の間にまともに話すことができたのって2、3人くらいだったっていうのも、ちょっと不安ではある。高尚なフリして閉ざされたままでいると、フィードバックが減るから帰ってこれなくなるみたいな現象に陥ってないか、自省がいる。コミュニケーション能力は高くないので、積極的にいかなければなあと思う。
 ヒトから学ぶか本から学ぶかのバランスも再考すべき。学校(高校、大学)による社会関係資本は比較的細いので、自ら開発が必要だろう。金銭的な余裕に伴ってある程度は改善を見込むけれど、今度は時間がなくなるわけで、心してかからないといけない。
 
 30歳で成長が頭打ちになる人間にはならないようにしよう。これは他人を腐す意図はなく、自分自身の人生に課す課題として。「30にもなると、この先どうなるかが大体決まってくる」みたいなことは言わないでいよう。また、成長それ自体が目的なのではなく、もちろん他人に差をつけるのが目的なのではなく、一生物事にうおーすげーと思える、普通にたのしい人生にしよう。知的好奇心は、人生100年を十分楽しませるのに不足ないものだと思う。旅もそれに類似するが、旅という方法にこだわらなくてもいいだろう。大戦略は、たのしいことを見つけ続けること。方法論を広げていくこともまた、たのしみのひとつである。

2013年2月13日水曜日

『レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて』を読む

 読もう読もうと思って長いこと経ったと思ったら、2年も経っていたのでした。medtoolz先生のブログは前々から知ってはいたけれど、Twitterというツールのおかげで何度か会話をする機会もあったり、中の人は今どういう状況なのかとか噂で聞き知ったりして(真実かどうかは不明だけれど)、そろそろ読みたいなぁと思っていたところだった。
 本の内容はタイトルの通りで、医療とコミュニケーションについて書かれている。患者さんとのやりとりの仕方から、チームコミュニケーションの方法、医療ミスに遭遇した時の対象の仕方などからなっている。後半になるにつれて非常に重い内容で、医療ミスの話から医療訴訟への対象法が述べられる。医療訴訟については付録となっているけれど、そういう経験があったのだろうかとつい推測してしまう。
 いずれにせよ、医療のプロセスの一番始めは患者さんとの対峙であり、多くの場合はそこからのコミュニケーションにより医療が開始されると言っていい。医療は、患者さんを中心として、主治医、他科や受け入れベッドの担当医、看護師などのコメディカル、患者家族、警察や法律関係者などを巻き込んだ一連の営みである。医療の目的はもちろん患者の命を救うことなのだけど、社会における営みは、アウトカムだけで評価してくれるということはない。そういう状況で医師を正しく守り、よりよい医療の実践を可能にするひとつのやり方が、よいコミュニケーションをすることなのだと思う。
 

外来にて

 外来診療、ここでは特に、時間外診療をイメージするとよいのだけれど、まず患者さんが外来の所定のブース(部屋と呼べるほど整っている病院は僅かだろう)に呼び入れられる。在宅診療という形態も普及しつつあるが、多くの場合このような、「医師が待ち受ける場所に患者さんが来る」スタイルが基本になっている。基本的には患者さんはアウェイなので、こういう場合に、例えばブースの外までのほんの数歩を迎えに行くようにすれば、あなたのことに興味があるというシグナルを発することができる。医療というのは「合意獲得ゲーム」であって、「同意獲得」が目的ではない。そういう意味で、例えば医師が患者さんを「説得する」というのはおかしくて、患者さんの納得に基づく合意を得るようにしなければならないし、そのためには患者さんに歩み寄るシグナルを発することは重要である。
 また1度の外来ではカタが付かないとき、あるいは交渉に難渋して場の再設定が必要なとき、うまく流れを切って次回に繋げなければならない。話がこじれて決別しそうになったとき、「必要最低限だけ繋ぎ止めて、時間をおいて修復を待ってから再チャレンジ」みたいな技術があれば、その場限りの必死の努力をせずにすむ。そのためには暫定的な判断は「私は現時点では、このように思っています」などと言い、「多分あなたは◯◯でしょう」などと、判断を相手に押し付けないように心がけると良い。そうすれば、病気の診断を自分一人で抱えずに済むし、医師は自分の判断を確実にするために次回の外来を設定する、などといった判断が可能になる。
 

チーム医療について

 チーム医療の必要性について叫ばれて久しいし、それが有意義なことだというのはわかるのだけど、実践しようとなると生半可じゃない(らしい)。チーム医療についても、
 「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに経緯を持って接しましょう」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。
 何かを変える時には、考えかたを改めた結果として、振る舞いが変わっていくようにするのが望ましいけれど、たいていそれはうまくいかない。
として、場の空気を変える方法を提示する。例えば「言ってください」ではなく「教えてください」と言い換えると、外観の変化はもちろんのこと、教えてもらう気が全くなければ自然にそんな言い方をすることもできないし、結果として中身の変化にも繋がる。また「あの患者は理解が悪い」などといった主観的で仮想的なものさしを用いることは、そのものさしが共有できないためにトラブルの原因となる。そういう場合も「私たちとは隔たりがある」などというような表現に改めることが可能だろう。
 またこのような場合、事実と判断とを分離するという方法も有効で、「あの人って理解が悪いですね」などといった表現では、事実と判断とが混同していてトラブルを引き起こす。観測された事実と、その時自分が抱いた感想を区別する必要がある。
 

医療ミスについて

 この章には様々なことが書かれていて簡単にまとめるのは難しい。
 ひとつ、引いておくとすれば、「手段としての謝罪」を正しく認識するということで、つまり謝罪の効用を適所で適したタイミングで用いるべきという内容である。しばしば誤解されているが、謝罪はある過失のすべての責任が自分にあることを認める宣言ではなく、結果に対して残念だと思う気持ちの表出であって、事実については別途検証すべきものと考えるべきである。こういう手段であるから謝罪というのは、何かが起こってすぐに表出されなければならないし、これが遅れると再びトラブルの引き金になりかねない。患者さんにや家族にとって、医療上問題があった時、彼らの感情や、現在の状況に対して謝罪をすることは(表現の方法によっては)医師の責任を認めることとは一致しない。謝罪はタイミングが重要であって、事実関係を完璧にまとめてから表出されたのではしばしば手遅れになっていることが多い。先手を打って感情面に一種の区切りをつけることで、防ぎ得るトラブルを防止できる。
 

所感など

 これらの他にも医療訴訟などについてや、その他様々なテーマに触れつつ展開されていた。
 印象的というか、改めて感じたことは、誠実でありさえすれば思いは届くというような、出来レースのようなことは実際ほとんど起こり得ないことで、丁寧を期するほどコミュニケーションは行き詰まったり工夫もなく正直だけで突っ込めばドロ沼ということもある。誠実であることを金科玉条とするのは、リスクヘッジの観点から言っても妥当ではなく、ひいては患者さんの利益につながらないということだろう。
 医療は極めて不確実であり、予期せぬトラブルに巻き込まれる可能性は常にある。こういったトラブルを回避するために必要なのは、国試解説本ですらたまに見かける「訴訟を回避するための検査」よりもまず、患者とのコミュニケーションにあたっての戦略の練り直しであり、患者さんと共に歩む工夫を見出すことなのだろう。

国家試験終了.

107回国試は終わりました。
結局、経過報告を前日と1日目の2つしかしなかったけれど、まあ。得点は、一般臨床は9割弱、必修は9割強という結果でした。難易度としてはむちゃくちゃ易化したと思うので、そんなに良くはないと思うけれど、とりあえず合格ということにはなりそう。ショボい問題でミスをしたのはよくないのでそれなりに復習をすべきではあるが、概ね大丈夫でしょう。
 

これからの国試に問われること

予測にすぎないけれど、106と107の流れは明らかな知識レベルの低下と「即時の対応の判断」の問題の増加が特徴的だと思う。まず後者、「即時の対応」については、各予備校においてもかなり言われてきたことであって、特段目新しさはなかった。しかしこれが必修においてかなりシビアなところまで出題されたので、ヒヤヒヤした人は少なくなさそうである。冷静に考えれば妥当な選択を選ぶこともできるが、試験中という状況ではしばしばオーバートリアージ気味になってしまう。もちろん過小評価よりは人命にとって悪くないんだけれど、考えもなしにオーバートリートを繰り返せば、限りある医療資源はすぐに底が尽きる。そういう観点を学生に問うのは国家試験としては過剰な気もするけれど、現代の医療が抱える問題への処方箋としては、結構妥当なのだと思う。まあ、よく勉強してれば純然たる判断(すなわち、医療資源がどうとか、そういう非医学的な状況への対象)を問うているものはそこまで多くなくて、医学的にカタがつくものも多いんだけど。たぶん現場の人としては、「それはどっちでもいいんだけど、こっちの方がベターかなー」くらいの判断なんだろうが、一応、教科書には根拠とともに判断材料が書いてある。医学的にも、現場的にも妥当な、しかし単なる知識ではない問題、としてよく練られてはいたと思う。特に必修の、トロップTを聞く問題、妊娠の経過観察を聞く問題は、そういうテイストを感じた。
一方で知識問題の出題は相当に減少したようである(予備校の分析を待つべきだが)。マークシートというテストの性質もあるが、消去法などの方法が使えるので純然たる知識を問うこと自体が無理筋だろう。判断問題は、「経過観察とすべき」なのか「入院して精査すべき」なのかは、消去法によって選べないし、むしろダミー選択肢を適切に除外できる能力も評価し得る。知識が臨床で使えないはずはないし、レアな疾患ほど試験などのペーパーでしかお目にかかれないわけで意義はあるんだが、その比重がかなり減少の傾向にはあるようである。これはあまり良いとは思えない。理由は単純に、勉強を頑張った人が評価されないから。暗記に優れた人は少なくない割合で医学部にいるけれど、そうでない人も試験前には頑張っている。リピドーシスなんて試験前くらいにしか覚えてらんないけれど、覚えてくる(ぼくは覚えてなかった)。そういう努力はある程度評価されても良いと思うし、努力のしがいがある試験であることは望ましいことだとも思う。まあ、努力の評価が試験の本分ではないという判断なのだろうが。
 

対策など

対策はしにくくなったようにも思う。一方で、対策の必要性自体が低下したとも思う。
まず、対策のしにくさとは、例えば必修がこれまで新問中心だったのに輪をかけて、その場の判断を聞いてくる。もちろんようく勉強すればわかるんだが、必修のQBを解く事自体はほとんど対策にならない。もちろん、他人が取るようなプール問題を潰しておく意義はあるが、その意義も限定的だろう。必修のみならず一般臨床(特に臨床)でもこの傾向が見られ、QBが即時的に国試の対策になる割合は、減少しているとみてよい。無論、教科書の理解をアウトプットする場としては必要であり、QBは通過すべき関門ではあるが、それだけでは意外と点を落とすことになるだろう。
一方で、上で対策の必要性の低下と言ったが、それは実習の経験がそのままテストで問われるケースが増えたということである。実習で見てさえいれば解けた、というものも散見され(特に必修の臨床)、机上の勉強のみならず、実習を重要視せよという意図は感じられる。その意味で、机の前で勉強する時間を減らす一方で、ベッドサイドでの勉強が重要になってくる。
 

所感

卒業時OSCEの必須化を睨んだ国家試験だと言えそうである。ただし、実習重視の教育というのは一見すると正しそうだし、社会的にも容認されやすいが、一方で大学によってそれをどこまで提供できるかということに差がつく可能性もある。知識と技能の平準化が国家試験の本来的な目的だが、教育を受ける場の平準化は難しく、試験としてアウトカムだけを評価するというのは十分に整合的なのかわからない。
ただまあ、国家試験が6年間の集大成となる、というお題目には合致するものになってきているようには感じる。最早、国家試験は6年生で対策をするものではなく、4年生頃から積み上げるべきものとなっているのであろう。

2013年2月9日土曜日

107国試 1日目

 ABC問題.

 A 16/20, 35/40
 B 33/40, 19/22
 C 14/15, 16/16

 もうな,必修は予備校とかクエバンとかで対策するのではなく,ポリクリをしっかりやることなんだと思うんだわ.あと教科書は読むべき,全てを予備校講師のノートに頼らないことだな….教科書は,せめて病みえ(すみずみまで読む必要はある),ステップレベルでよい.朝倉とかハリソンはちょっとやりすぎである(しかし,しっかり引いておくと地頭的に効いてくる).

2013年2月8日金曜日

107国試 前夜

 遂に来た.

 TECOM ラストVを受講する.
 いや,この講座の学習効果とかイマイチだと聞いたので,あまりやりたくはなかったんだけど,直前系の講座を(金銭的理由から)あまりとっていなかったのもあって,これくらいはやるかぁと思って.三苫先生の講義は1時間にみたないほどのものだったんだけど,まあ割と復習にはなったと思う.MECの直前講座よりは,幅広いテーマを扱っていたようなのでよかったような.とはいえ十分に勉強した人にとっては,それほど必要ではなかったのかもしれないがなあ.

 久しぶりに勉強部屋以外のひとと席をならべて講座を受けるようなことをしたけれど,猛烈に暗記して来ているやつも多く,自分の知識のショボさに落胆する.まあ,いいんだけどさ(よくないが).言い訳はいろいろ可能なんだが,医学知識は多くて悪いことはないから,単純に努力不足.


 これまでのことを悔いるのは適度に.
 かんたんに復習をして寝よう.

2013年1月28日月曜日

21st-Century Hazards of Smoking and Benefits of Cessation in the United States より


http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMsa1211128
N Engl J Med 2013; 368:341-350

要旨

1980年代の研究では,米国において喫煙は35-69歳の男女の死の25%の原因を占めると推定されていた.ただ現在では当時よりも喫煙者の数は減り,公衆衛生的環境も変化している.そんな中での国家的にみた各年齢における喫煙のリスクと禁煙のベネフィットは,不明であった.
 25歳以上の113,752人の女性および88,496人の男性について,喫煙と禁煙の履歴を得て,この情報と,対象者のうち2006年12月31日までの死亡(うち女性は8,236人,男性は7,479人)の関連を調べた.現在の喫煙者と喫煙したことがない人との比較でのハザード比は,年齢,教育レベル,肥満度,アルコール消費量で調節した.
25歳から79歳までの現在の喫煙者の全死亡は,ハザード比(女性)は3.0(99%CI, 2.7-3.3)であり,ハザード比(男性), 2.8(99%CI, 2.4-3.1)であった.喫煙者により多かった死因として,悪性新生物,血管系,呼吸器系その他,喫煙関連の疾患であった.25歳から75歳にいたるまでの生存確率は,女性で70% vs. 38%,男性で61% vs. 26% であった.平均余命では,現在の喫煙者は非喫煙者より10年以上も短い.また喫煙をやめた人については,25-34歳,35-44歳,45-54歳の時点それぞれで10年,9年,6年の余命延長の効果があった.
80歳までの生存に対する禁煙時期の影響.
(FIGURE 3より)



議論等


 U.S. National Health Interview Survey (NHIS)というのがすごい.National Death Indexというのと紐付けされているらしい.
  The NHIS is a nationally representative cross-sectional health survey of the civilian, noninstitutionalized population of the United States. The survey uses a stratified, multistage sample design that permits representative sampling of households. One adult (≥18 years of age) is randomly selected from each selected household for a detailed interview on health and other behaviors. The NHIS sample is drawn from each state and the District of Columbia. Each year, approximately 35,000 households and 87,500 persons are newly enrolled in the survey. Black and Hispanic persons are deliberately oversampled, but the sample weights ensure that the final totals conform to national ethnic proportions. The NHIS sampling frame excludes only about 7 million adults (chiefly patients in longterm care facilities, prisoners, and active-duty military personnel) from the total U.S. domestic population of 226 million adults in 2004.
NHISは米国国民のうち入院中でない人々に対する横断的健康サーベイで,18歳以上を対象に多段抽出法で選ばれ,質問が行われる.毎年およそ35,000の家計と87,500人の国民が新たにサーベイに加わるようになっている.人種的には黒人とヒスパニックが故意にオーバーサンプルであるが,全体としては国家の民族割合の代表として問題ない.このサーベイの対象者として,長期施設入所者,囚人,現役軍人などは除かれているが,それ以外の米国国民2億2600万(2004年時点)の人々が対象である.


 これは横断研究である.この研究デザインで注意しなければならないことの一つに,「因果関係をどう説明するか」である.以下のような議論がある.
  Life-threatening illness can cause smokers to quit, which distorts the rates of death among current smokers and among those who have quit smoking recently in opposite ways.
生命を脅かすような疾患は喫煙をやめさせる原因になるため,現在の喫煙者の間での死亡率と最近喫煙をやめた人の死亡率を全く逆向きに歪めてしまうことになる.

 たとえば肺癌を診断された患者が,「流石に禁煙するか…」となったとき,「肺癌」と「最近の禁煙」が関連付けられてしまうことになる.逆に,「現在も喫煙を続ける人」が「無病息災」と関連してしまうことにもなってしまう.言うまでもなくこれは因果関係を歪めてしまうことになる(原因と結果の逆転).
  Unlike previous analyses of NHIS results, our analyses classified former smokers who had quit within 5 years before death as current smokers. Participants were classified as former smokers if they had smoked at least 100 cigarettes in their lifetime but had not
smoked within the previous 5 years. Participants were classified as never having smoked if they had smoked fewer than 100 cigarettes in their lifetime.
今研究では,死亡までの5年以内に禁煙を始めた人を「現在の喫煙者」と分類した.また「元喫煙者(禁煙者)」を,生涯で100箱以上の喫煙歴があり,かつ5年間喫煙をしていない者とした.生涯で100箱未満の喫煙歴の者は「非喫煙者」とされた.



 因果推論において最も重要なのは上記であろうが,それ以外にもいくつかDiscussionにおいて述べられていた.以下を抜粋する.
  Finally, although the smokers who quit smoking might have been more likely than those who had never smoked to try to improve their health, we found little difference between these two groups with respect to alcohol use, adiposity, and other health-related variables.
禁煙を始めた人は,もともと喫煙をしていなかった人に比べて健康への意識が高いのでは,という可能性がある.そうであれば禁煙自体がそれほどまでの余命改善効果がなく,禁煙の効果を過大評価している可能性がある.むしろ生活習慣への注意の方が重要ではないか,とも言える.この点については,交絡の調整に用いた指標であるアルコール消費量,肥満度その他の健康関連の指標において,ほとんど違いはなかったことから,棄却できよう.


国家規模のサーベイの環境のもとで行われた研究であり,手法としては比較的シンプルである.このような公衆衛生的問題に対する研究というのは,しばしば情報を集めること自体が難しかったりする.やはり,NHISのようなしくみを作ったことが素晴らしいといえるのではないだろうか.

2013年1月25日金曜日

『精神と物質』を読む 2


精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察,エルヴィン・シュレーディンガー
 ガレノスは私たちに断片(ディールス,断片一二五)を残してくれました.そのなかでデモクリトスは,何が「真実」なのかということにつきまして,知性(ディアノイア διάυοια)を登場させ,感覚(アイステーセイス αἰσθἠσειζ)と論争させております.知性いわく「表面上は色がある,表面上は甘味がある,表面上はにが味がある,しかし実のところ原子と空虚あるのみ」と.これに応報して感覚いわく「おろかな知性よ,われらからお前の論拠を借りてなお,われらに打ち勝とうと望むのか.お前の勝利は,お前の敗北」と.
 本章において私は,科学の末席たる物理学から得た単純な例を通して,二つの一般的な事実を対比させようとしました.すなわち,(a)自然科学のすべての知識は知覚に基づいているということ,そして,(b)それにもかかわらず,このようにして得た自然の過程に対する科学的な論点には,感覚的性質というものが欠如しており,したがってこれを説明できないということなのであります.一般的な論評をもって結論を申しあげましょう.
 科学的な理論は,私たちが観察や実験で発見したことがらを概観するのに役立ちます.科学者は誰でも,諸々の事実につきまして,それをまとめたなんらかの理論的な描像ができあがるまでは,かなり多量な事実を頭に納めておくのがなんと困難なことかよく知っております.したがいまして,次のことはちょっとした驚きでありますが,しかし元の論文や著書を書いた著者が決して責められてはならないことであります.論理的で首尾一貫した理論ができあがってからは,著者たちは,発見された元の事実や,読者に伝えたいそのままの事実については記さずに,これらの事実をその理論や他の理論の学術用語のなかにおおいくるんでしまうのであります.このようなやり方は,うまく順序だてられたパターンとして事実を記憶しておくのに有用なのですが,実際の観察と,それを元にして築いた理論との区別を消し去ってしまうことになるでしょう.観察されたことがらは,常に感覚的な性質に依存しているものですから,理論はこのような感覚的性質を説明してくれると安易に考えてしまうのです.しかしながら,理論は決して感覚的性質を説明するものではありません.

 現代の医療という科学について.
 科学的な態度で事実を説明・記述しようとして,得られた知見はもちろん科学的なものだ.しかしいざ私たちがその知見を目の前の問題に適用しようというとき,おや,これでいいんだろうかと悩むことがある.この違和感はたぶん結構重大で,というのは,科学的知見を知覚?し,さらに私たちの精神がそれを解釈し,アウトプットする.そういうインとアウトの2ヶ所で精神が介在するんだけど,その間は科学が全く説明のできない領域なのだ.
 昨今のEBMとよばれる一連の営みにおける「エビデンス」とは,科学的知見それ自体である.ここではしばしば「エビデンス・レベル」というものが取り沙汰されるが,それは「どれくらい厳密に科学的か」の度合いのことを指す.知見の科学性を問うのは比較的容易であるし,その純度を高めることは技術的には可能である.一方で,その知見をどう解釈し,どう適用するか,についてはどちらかというと見逃されやすいように思う.というよりもむしろ,エビデンス・レベルの高さというものが,解釈とか私たちの精神とかいったものを飲み込まんとする勢いさえ感じることがある.メタ・アナリシスという膨大なデータを束ねた科学的事実に対して,私たちはどう向き合うべきか,あるいは私たちの感覚は,それをどうコントロールすべきなのか.
 科学が,感覚までも説明し尽くすことを望むより,別のやり方があるようにも思うのだけど,まだわからないな.

2013年1月21日月曜日

Golden S sign.

 Golden S sign(S sign of Golden, GoldenのSサイン)とは,特徴的な胸写像のひとつで,肺の中枢の腫瘤性病変の存在,または肺虚脱(無気肺)を示唆する.
 1925年にGoldenによって指摘され,当時は「肺気管支癌」の像として紹介されたが,その他にも転移性肺癌,リンパ節腫大,無気肺によっても同様の像をみることがある.

 単純の胸写,あるいはCTでみられる.右肺においてminor fissureの変形としてみとめられる.右上葉が虚脱し,minor fissure(horisontal fissura)が挙上される.このとき,上に凸のカーブとしてみとめられる.また,肺門部に腫瘤性病変があるとその部分がさらに変形されて,シグモイド状のカーブを描く.






ref.
Golden S sign - Wikipedia
Right upper lobe collapse - wikiRadiography

2013年1月20日日曜日

『精神と物質』を読む

そしてこの行動の変化は、ゲノム(genom)によってもたらされたからだの変化とあいまって、例示や教育、さらにはより素朴な方法で子孫に伝えられます。いやそれどころか、たとえからだの変化がまだ遺伝的なものではないにせよ、むしろ「教えること」によってもたらされた行動の伝達が、まことに効果的な進化の要因になりえるのであります。なぜならこれが、変異を有効なものにする準備をし、強い淘汰を受けさせる用意をし、将来の遺伝されるべき突然変異を受け止めるための扉をひらくのですから。
 
当時、ラマルクが考えた「獲得形質の遺伝」は、遺伝学的には誤りであった。ダーウィンの理論が正しいものとされた。一方で、例えば突然変異的に生まれた、毛の多い植物はより寒冷な土地でも生存できる。遺伝的に、そして後天的にランダムに得られた性質により、元来であれば不利な状況下での生存、生殖が可能となった。そして後世に、さらに厳しい状況を与えることになる。
遺伝学的に遺伝しないにしても、個体の行動次第で進化への扉が開かれていくのである。

2013年1月17日木曜日

アベノミクスとは何か

Wikipediaにも記事があった(参照).
以下,ほぼ引用.


 日本経済の問題を「デフレ」とした上で,デフレ克服のために取られる一連の経済政策.インフレターゲットを設定し,これが達成されるまで大胆な金融緩和措置を講ずる.

 日本経済の置かれた背景としては,1990年代初頭のバブル崩壊以降,名目GDPの成長不全に陥っていた.それなりに金融緩和をしていた(気がする)が,あまり効果はなかった.クルーグマンは当時,日本が流動性の罠に陥っている可能性を指摘しつつも,日本経済を回復させるための手段として,お金を大量に刷りなさいということを言っていた.また,スティグリッツも,日本がバブル崩壊以降のデフレに対して手をこまねいている現状を指摘し,日本経済の好転のためには日本政府が財政赤字を紙幣増刷によってファイナンスしては,と提言していた.

 2012年11月16日の解散総選挙から12月26日の第2次安倍内閣発足にいたり,政権与党に返り咲いた安倍さんだが,経済政策についてはデフレ脱却・無制限の量的緩和策を打ち出しており,それを好感した株価の動きもあった.

 アベノミクスは,大胆な金融政策,機動的な財政政策,民間投資を喚起する成長戦略の3つを基本方針としている.個別の政策としては,2%のインフレ目標,円高是正,政策金利のマイナス化,無制限の量的緩和,大規模な公共投資(国土強靭化),日本銀行の買いオペによる建設国債の引き取り,日銀法改正などがあげられる.


 勉強不足でいろいろよくわからないし,約3年の民主党政権でどのような財政政策がとられてきたのかもわからない.米国その他の財政政策のトレンドもよくわからない.
 民主党政権でしばしば言ってた「成長分野に集中的に投資を」という話については,政府がそういうのを敏感にキャッチし,適宜投資するなんて芸当は正直無理筋よねというのはあった(だからこそ,計画経済というのは上手くいっていない).結局のところ,マネタリーベースを増やして経済の循環をよくし,民間の手で成長領域への投資を活性化するような手段しかないっぽいみたいな結論なんだろうと思う.とはいえ,貨幣量が多すぎると(過度な)インフレを起こして国民生活が脅かされたり,国債の信用が落ちて金利上昇,財政破綻をきたすなどの副作用もあるんだろう.いろいろな評があってよくわからないけれど.

 とりあえず,経過を見守ることにしよう.

2013年1月15日火曜日

NNT


無い内定ではない.
Number Needed to Treatの略.

 「所定の治療効果を得るために,何人にその治療をする必要があるか」をあらわすもので,治療効果の強さをあらわすといってよい.10人にやって10人に効けばNNTは1だし,10人にやって1人にしか効かなければNNTは10である.

 たとえば,ある治療介入Aを行った群と行わなかった群で,生存率が以下のように違ったとする.いずれも,サンプルは1000人とする.

介入あり:12%の人が生存
すなわち,120人が生存(880人が死亡)
介入なし:10%の人が生存
すなわち,100人が生存(900人が死亡)

この介入によって生存が20人増えたことになる.1000人に対してAという介入を行い,20人の生存を増やしたということは,Aの介入による生存者を1人増やそうと思ったら,
1000/20=50(人)
への介入を行う必要がある.以上より,Aという治療は50人に行って1人が生存するものである,と評価できる.

 疫学指標をバリバリ使うなら,「絶対リスク減少 absolute risk reduction, ARR」を用いて,
NNT=1/ARR
とも書ける.(今回の場合は,ARR= 900/1000 - 880/1000 = 0.02,この逆数は50.) ARRを用いる場合は,リスクに着目するので有害事象が起きた人数をカウントしなければならないが,介入群とコントロール群でサンプルサイズが異なる場合でも用いることができる(上記の例では,サンプルサイズがいずれの群でも同じだったので,余計な考慮が不要であった).

2013年1月12日土曜日

『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読む

読者と同じ椅子に「座ること」
 
文章になりそうでならない、僕の脳内、それをもし文章化するとして、読者とは誰なのだろう。明確に誰かに向けて書けそうな内容のこともあるけれど、自分の興味は「不特定多数」に向けて言いたいことが多いような気がする。あるいは、思っていることの対象を、自分でもわかっていないのかもしれない。
そう考えれば、「読み手」を意識することは、そうやって漠然としたままにされている読者をちゃんと想定しろよという戒めなのかもしれない。
Twitterのせいだ、というと負け惜しみみたいだけれど、放言的に文章を投げ散らかす癖がついてしまってる気がする。ああ、なるほど。
と、自分を読者と見たてて、書いてみる。

2013年1月2日水曜日

新年.

稲垣早希のものまねとコントが非常によかった.
なんだこの新年.