2012年12月28日金曜日

科学は個人の行動を変えられるか -ネット上での議論より

非常によいまとめを目にしたので,簡単に見解をまとめておこうと思った.当該Togetterは以下である.

我が子に予防接種をさせる前に その4:日本の予防接種政策の根っこにあるもの

個人的見解の要旨としては,

  • dmburg氏が抱く不安の感覚は当然のものと考えるが,マクロにみたリスクベネフィットと,個人の行動決定の判断材料とは,区別して考える方がよい.
  • 事実としてワクチンに伴う副反応の確率は,低いといっていいだろう.一方でワクチン自体が「健康な人に接種される」性質のものである以上,許容されるリスクは一般的な医薬品等に比較して低いだろう.以上の前提で,仮に現状と,ワクチンゼロの世界を比較可能であった場合に,死亡率等の改善という意味で,前者の方がより良い結果を残すのはほぼ確実だろう.
  • ただし,現実の科学の方法では,上記のことを証明することはほぼ不可能である.
  • 証明できないが,「今も罹患している人がいる」状況があり,どう決断するかが問われている.

また,悪口のようになってしまうが,

  • 岩田健太郎氏の応答は,科学云々の高度な話の以前に,OSCEレベルでどうよと言いたい.
  • dmburg氏の疫学知識の不足を垣間見る場面はあったものの,非医療者である氏に「疫学を学べ」と言う態度は「正直,ねーよ」と言うしかない.

議論はかなり長期化しているようで,論点の散逸もみられる.ワクチンを拒絶したい根底にあるのは,以下のような事実および言論であろう.

  1. ワクチンの有用性の問題.これについては,実証されている部分もあるし,されていない部分もある.
  2. ワクチンの副反応の問題.dmburg氏が最も懸念しているのはこの点にあると思われる.健康な子に接種させて,万一のことがあれば,というごく個人的な不安から,副反応に関する十分な知見が不足している点(ワクチンとASDの関連等),公開されている知見の信憑性が低い点等を指摘している.
  3. 病気への認識.「麻疹って死ぬんですか(参照)」といった疾病の及ぼす影響の理解が不足している点はあった(まあ,一般人としては普通だろうが).これは簡単にデータで示すことができる.
  4. 過去の出来事.厚生労働省(および,旧厚生省)や専門家集団への信頼性の低さがある.これは,私自身少なからずあるので,個人的見解としては擁護してよいと思っている.
インフルエンザワクチンについては,その効果についてかなり議論のあるところだということは事実である.メタアナリシスの段階では,明示的な予防効果は示せていないのが現状である.

Vaccines for preventing influenza in healthy adults. ー Cochrane Database Syst Rev. 2010 Jul 7;(7):CD001269.
Vaccines for preventing influenza in healthy children. ー Cochrane Database Syst Rev. 2012 Aug 15;8:CD004879.

一方で,麻疹ワクチンやB型肝炎ワクチンに関しては,接種した場合としない場合のリスクベネフィットを考慮すれば,接種はかなり推奨されるといっていいだろう(エビデンスが示せないが).同じワクチンといっても,影響がかなり異なっており,乱雑な議論は避けたいところである.

一連の議論を方向付けるとすれば,根本的には,医療という科学をどう見るかというかなり本質的で答の出にくい問題を問う議論であるといえよう.上記のように,疫学的に記述可能な領域は限られており(日夜研究がなされているとはいえ),当面の問題を解決するのに十分とは到底言えない.ワクチンを接種すべきか,今現在子育てをする親にとって,不安を解決するための完璧な回答は未だないのである.これはワクチンに限ったことではなくて「データがないのに判断しなければならない」というのが,医療の常である.また,他のあらゆる科学技術においてもそうだろう.確証などないが,判断しなければならない."科学的に"より妥当(valid)な選択をしようとすること,これがまず一歩.次は,その不十分な選択肢の中から,われわれが選ばなければならないのである.患者やわたしたちが問題に直面し,選択肢を選ぶまでの一連を,EBM; Evidence based medicineと言うのである.かならずしも,むやみにCochraneを引くことがEBMではないのは,「Cochraneが我が子の抱える問題を解決するのか」と問えばわかるだろう.また,「ワクチンは効かない」「抗がん剤は効かない」などといった言説が,現代の科学的方法からいかに逸脱しているかもわかるだろう.明示的に言えることなど殆どない現状で,「効かない」と言えるはずはなく,「効くかどうかわからない」以上のことは言えないのである.

ワクチンを是とするか非とするかは,比較的瑣末な戦術レベルの意見である.われわれが本当に考えるべきなのは,我が子の健康や幸せといった,もっと大きな戦略レベルの話である.とはいえ戦略を完璧に語るだけの戦術がないのが現状で,どの方法をとるべきかを悩むことこそが,現代の"科学"をもとにして,わたしたち一人一人ができることなのである.医学知識は膨大であるから,ぜひ信頼のおける医師・医療者と,よく話し合ってみる必要がある.割と地味な,コミュニケーションの問題である.

2012年12月16日日曜日

Code Red and Blue — Safely Limiting Health Care's GDP Footprint より


http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp1211374?
N Engl J Med. 2012 Dec 12.

 公・民の政策屋が,医療保健部門支出のGDPに占めるシェアの増大を危惧して,いろいろ考えているという話.医師たちは,医療費が増大していくことを当然視しているらしいことにも言及がある.3つの予測をしている.
 ひとつ.ドル当たりに得られる健康度(バリュー)をもっと増やすことができれば,必要となるカネは15-30%減るだろうということ.
 ふたつ.医療保健部門に関する支出が,GDPの伸びと2-3ポイント上回っていることで,経済的に逼迫しているということ.Warren Buffettが「米国経済の寄生虫」と言ったように,教育,基礎研究,インフラ整備,その他公共財への投資に手が回らなくなっている.行政はギャップを埋めるために腐心しているが,特に高齢者を中心に,より良いケアのために投資をせよという人が増えている現状がある.
 みっつ.米国の医療は仕事のやり方を新しくしなければならない.臨床家や管理者が,バリューをもっと高めるために,現状の臨床のワークフローの見直し,他領域のマネジメントツールの利用,データベースの活用,技術(特に,健康心理学health psychologyと情報・コミュニケーション・マテリアル技術)の進歩の援用をすべきである.

*
 いわゆる医療費亡国論という感じもする.GDPの伸びを上回る医療費の伸びに対する危機感,また連邦債務のかつてない伸び(第二次大戦の水準に近づく),これらが国家経済の成長を損なうという内容である.一方で斬新な(とはいえどこかで議論されていたような)点は,医療のバリューを高めることを,この問題のソリューションとして提示していることである.健康産業へのインセンティブや医療供給体制への提言に加え,米国で実際に行われるらしい医師へのインセンティブについても触れてあった.

Most approaches to persuading the health industry to create robust learning health systems strengthen incentives for improving value. Provider-directed incentives improve payments to health care providers that attain more health gain per dollar spent than they have in the past or than their peers do. Examples include Medicare's chronic illness and bundled-payment demonstrations, pay-for-performance programs launched over the past decade, and newer approaches such as accountable care organizations, bundled payments, medical homes, and hospital value-based purchasing. Some physicians will be more directly affected in January 2013, when they will receive reports from Medicare comparing them with their peers. By 2017, these comparisons will be used to modify all physicians' Medicare fees. Patient-directed incentives link the fraction of health care costs paid by patients to the extent to which they select higher-value health care providers and treatment options, including self-care.

 医師は,メディケア(の請求の範囲で,ということか?)で他の医師との競争をすることになるらしい.ほえー,なんかこわいな.
 読みすすめていくと,割と強烈に医師の態度の批判があって,「穏当だ」なんてFBしちゃったのを後悔した.米国国債の発行額は増える一方だが,野放図な医療支出を是認していては国債利率の上昇を招き,事態を悪化しかねず,連邦議会予算事務局は財政問題を重く受け止めて改善策(=この文脈では,バリューの増加)を検討している.一方で,医師は自らの収入減を憂慮してロビー活動などに勤しんでいるという話だった.
 単純な,市場原理についての話なら別にどうということはないが,医療に寄せられる期待というか,「あるべき姿」性には,正直同情の念を禁じ得ないなぁと思った.とはいえ,増大する医療費に手を付けないわけにもいかないわけで,そのあたり純粋に「合理的に」やってほしいなと思うところではある.

 偉大な,サー・ウイリアム・オスラーは次のように言ったらしい.「ケアは最大限効率的になされなければならない.それに満たないものは目の前の患者への害悪であり,患者になったかもしれない者への不正義である."Medical care must be provided with the utmost efficiency. To do less is a disservice to those we treat, and an injustice to those we might have treated."」医師はどちらの道を選ぶべきだろうか.

2012年12月8日土曜日

Ecologic Studies (3)

エコロジック研究の位置付け
1 コストが低く,やりやすい.
2 個人レベルデータについては,限界があるとき.
3 個人レベル研究では研究デザイン上の限界があるものでも,考えることができる.
4 エコロジックな効果が知りたいとき.→エコロジック効果について知りたくても,indivisual-dataがなくていいというわけではない.
5 解析の単純さ.


- Ecologic Studies. Modern Epidemiology, K. J. Rothman, 2007

2012年12月7日金曜日

Ecologic studies (2)

計測のレベル
 疫学研究に使われるデータには,個人を直接対象としたもの(年齢と血圧)と,集団,組織,場所を対象としたもの(社会の無秩序さと大気汚染)がある.これらのデータ・観察対象は,研究に応じて特定の変数を計測するものとしてまとめられる.しなわち,個人レベルの変数は個人の性質を,あるいは集団,組織,場所の変数はそれらの性質をあらわすものである.このエコロジックな計測については3つのタイプがある;
  • 集計指標 aggregate measuresはそれぞれの集団の中にいる個人から得られた観察データのサマリ(平均や割合)である(たとえば,喫煙者の割合と一家の平均収入).
  • 環境指標 environmental measuresは個々の集団のメンバーが住んでいたり働いていたりする場所の物理的な性質である(たとえば,大気汚染レベルと日照時間).※環境計測は個人レベルにおいて類似性をもつが,これらの個人レベルの曝露(またはドーズ)はそれぞれの集団のメンバー間で,多くの場合違ってくる(そしてそれらは計測されないままである).
  • 全体指標 global measuresは集団や組織や場所の性質であって,個人レベルとは一切の類似点をもたないもので,集計計測や環境計測とは異なるものである(たとえば,人口密集度,社会の無秩序さのレベル,特定の法の存在または健康保険制度のタイプなど).
分析のレベル
 分析の単位というレベルが,すべての変数のデータを還元,解析するのによく用いられるものである.個人レベル分析では,それぞれの変数値はそれぞれの研究対象に割り付けられる.エコロジックな計測においては,1つまたはそれ以上の数の予測変数を用いることができる.たとえば,それぞれの国の平均汚染レベルをその国に住む個々の対象に割り付けることができる.
 完全エコロジック解析では,全ての変数(曝露,疾患,そして共変量)はエコロジックな計測であり,すなわち分析の単位が集団である(たとえば,地域,勤務地,学校,健康保健施設,地理的階層,または一定期間).したがって,それそれの集団内では,個人レベルでのどの変数の組み合わせについても,結合分布についてはわからない(すなわち,曝露ケースの頻度,非曝露のケース,曝露ありの非ケース,非曝露の非ケース).わかるのは,各変数の統合分布 marginal distributionのみである(曝露の割合と有病率).2×2表における,合計部分しかわからない.
 部分エコロジック解析は,結合分布についての情報が,もう少しあるものであるが,完全にはわからない.たとえば,国ごとのがんの罹患率についてのエコロジック研究では,年齢(共変量),疾患の状態などは全数調査や全国がん患者登録などから得られる.これにより,国毎の年齢別がん発生率を見積ることができるだろう.
 マルチレベル解析は,2つまたはそれ以上のレベルのデータを結合する特殊なタイプの研究モデル技術である.これについては後述.

推定のレベル
 疫学研究あるいは解析の基本的な目標は,生物学的(あるいは生物行動学的)推定,すなわち個人のリスクに影響するものか,あるいはエコロジック推定,すなわち集団の率に関するもの,をしようとすることである.ふつう,因果推論の対象レベルと,解析のレベルは必ずしも一致するわけではない.エコロジック解析に用いた対象について,エコロジックレベルから個人レベルについてある程度はいえるかもしれないが,このようなクロスレベル推定は特にバイアスに弱い.
 ある研究の対象が,バイク搭乗の際のヘルメット着用の,バイク関連死亡のリスクに与える影響は,生物学的(個人的)な影響を推定するものであるなら,目的レベルは「個人」となる.ここで,たとえばヘルメット着用法案とバイク関連死亡率が州ごとに違うことをみる場合は,エコロジック研究だといえる.ただし,これをそのまま生物学的な効果とみなすことはできず,この場合だと,死亡率というアウトカムはその法律の遵守の割合によって変化し得る.また更に,エコロジック効果の推定の妥当性は,われわれが交絡因子の結合分布,すなわち州間での年齢やバイクの流通量など個人レベルの変数をどれだけ排除できるかにかかっているのである.
 文脈的効果 contextual effectは,たとえば貧困地域への居住と疾病リスクを考えたとき,個人の貧困度をある程度コントロールする必要が生じるが,このようにエコロジックな曝露が個人のリスクにおよぼす効果のことである.

- Ecologic Studies. Modern Epidemiology, K. J. Rothman, 2007

2012年12月4日火曜日

Ecologic Studies (1)

 エコロジックスタディ ecologic study,あるいは集団研究 aggregate studyとは,個人ではなく集団の比較に焦点を置いた研究方法である.このようなものに焦点を置く根本の理由として,各々の集団における少なくとも2つ,あるいは全ての変数の,結合分布 joint distributionに関する個人レベルのデータが欠けているということがある.ゆえにエコロジックスタディは「不完全な」スタディであると言われる.エコロジックスタディは社会科学者によって前世紀から既に行われていたもので,さまざまな研究領域で頻用されてきた.にもかかわらず,個人レベルの研究,集団(エコロジック)レベルの研究そして推測に基づく示唆との区別が,始めに現れたときよりずっと複雑で漠然としたものになっている.1980年までは,エコロジックスタディはしばしば疫学の教科書の始めのパートに単純な「記述的」分析,すなわち仮説検定にさきがけて地域,時間別に罹患率を層別化するものであり,統計学的手法や推定などについてはほとんど注目されていなかった(例えば,MacMahon and Pugh(1970)をみよ).この20年でこの方法やエコロジックスタディの実例が大幅に拡張しており,この領域の主要な部分は今,しばしば「空間疫学 spatial epidemiology」とよばれている.

- Ecologic Studies. Modern Epidemiology, K. J. Rothman, 2007

2012年11月9日金曜日

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
すでに述べたように、強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的ををもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療域での試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考えよう、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間がは、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的を見すえて生きることができなくなるからだ。かつて、失業した鉱山労働者を心理学の立場から集団検診した結果、このゆがんだありようが時間感覚におよぼす影響をさらにくわしく調査しなければ、ということになったことがある。心理学では、この時間感覚を、「内的時間」あるいは「経験的時間」と呼ぶ。

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間がになることだ」

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
強制収容所にいたことのある者はなら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間がをぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間がとしての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

2012年11月8日木曜日

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人はの面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

2012年11月7日水曜日

無題・引用

夜と霧、ヴィクトール・E・フランクル
「まっただなか」 にいた者は、完全に客観的な判断を下すには、たぶん距離がなさすぎるだろう。しかしそうだとしても、この経験を身をもって知っているのは彼だけなのだ。もちろん、みずから経験した者の物差しはゆがんでいるかもしれない。いや、まさにゆがんでいるだろう。このことは度外視するわけにはいかない。そこで、いわゆるプライヴェートなことにはできるだけふれないことが、しかし他方、必要な場合には個人的な経験を記述する勇気をふるいおこすことが重要になってくる。なぜなら、このような心理学的探求のほんとうの危険は、それが個人的な調子をおびることではなく、かたよった色合いをおびることにあるからだ。

2012年11月2日金曜日

表出する自分についてー2

いやあ、我ながら自分は何と平凡なのかと失望してた。
どうみても、努力ができていない。日々漫然、創造性なし、がむしゃらでもない。
妙な達観のフリとか、平成を装い、相手とは違うんだと思い込むことによる自我の防衛とか。
 
ああひどい、なんなんだこれ。
環境のせいだ。だからぼくはだめなんだ。
 
自我を守ろうとしても、どんんどん漏れ出る。弱さがにじむ。
自分の表出の片鱗と、他人を比べて辛くなる。
 
ああでも、人と比べなきゃ、馬力が出ない。やはりそうだ。
ちょっと変わったことして、ニッチで優位に立って、くだらない中途半端人間になるくらいなら、必死に努力しろよ、自分。このままでは腐るぞ。

2012年10月31日水曜日

Westermark sign

ウエスターマークサイン,ヴェスターマークサイン

PE, 肺門部扁平上皮癌等において,肺動脈への侵襲・塞栓を認める場合,肺動脈陰影が突如消え,またその肺動脈の潅流領域に限局性の透過性亢進を認めるもの.
下図では,左肺の下肺に向かう肺動脈が突如消失している.

- wiki Radiography, http://www.wikiradiography.com/page/Westermark+Sign

2012年10月28日日曜日

おぼえがき

臨床研修制度と医師の偏在の問題について。
「医師の偏在」を根拠に、6都府県の研修医数を絞ろうという議論はあるが、そもそも前提となる「6都府県に医師が偏在している」という命題自体がどれくらい妥当かは明らかでない。厚労省の報告書は、医師の偏在の問題に興味がある様子だったが、その前提への分析については、ちゃんと調べる必要がある。
いずれにせよ、偏在是正を「枠の絞り込みによって」達成しようというのは、やや暴力的のような気がするし、地域は自ら医師を惹きつけなければ、定着しないからどのみち同じ結果となりそうではある。
 

2012年10月27日土曜日

表出する自分について

 自分で研究をデザインしてみよう,ということで始めた勉強会.具体的に考えてみると,具体的に自分の足りなさや浅さが見えてきて,生半可にはいかない.ある程度バカなのは仕方ないにしても,したり顔で他人の批判キメているような人間になりかけているような気がして,ああこれいかんわ,と思ったところである.
 実際やってみると違う,っていうのは確かにあった.まあ,だからといって,「経験がなければ批判してはいけない」とするとまた,進歩がなくなってしまうんだろうけど.研究をやる人,批判を加える人,双方の体験をしておくことは大切だと思った.やっぱりコミュニケーションというものは,共通点や共感があってこそ,なのだと思うし.


 ぼくは,研修医教育とか,医学部学生→医師っていう,かなり初期の医学教育について調べてみたいと思った.その中で,「よりよい医師」って何だろうというのが大きなテーマになった.もうすこし,問題を特定・具体化しよう.
 医師のキャリアの一番始め,特に初期研修とよばれる2年間をどう作るかというのは重要だとみなされている.その医師にとっての土台作りとして重要になると思われるからである.ここでの土台とはつまり,適切なプライマリケアを実践できるだとか,医師としての素養を涵養するだとか,もっとそもそも論的なところだと,医師の仕事ってどう? やりがいや面白さが見付かった? とかいうのもあるだろう.医師というのは短期間に完成できる職業ではなく(他の領域もそうかもしれないが),そうだとすれば「初期目標」というのは自ずと医療技術や,手技の上手下手より,ヒヤリとした経験を指導医に救ってもらっただとか,救急の初期対応ができるだとか,今後一生学んでいくにあたって医師という仕事に愛着や,誇りや,やりがいや,面白さを持てたとか,もちろん,そうじゃなかったとか,そういうものになるだろう.それを可視化してみたいなと思う.それらがアウトカムになりうる.で,教育という曝露のどの要素を持ってくるかだけれど,救急車台数,当直回数,担当患者数あたりは入れてみてよさそう.医学生が病院を選ぶうえで,一応確認する項目ではあるし.多すぎても少なすぎてもダメだ,というところはありそうなので,適正範囲みたいなのの目処をつける意味でもやってみたい.とはいえこの曝露設定だけではイマイチなので,もうすこし本質に迫るようなものを設定しなければならず,ここが難しい.上の先生に聞いてみないといけないような気がしている.


 なんだかもにょもにょ,落ち着かない感じ.研究という形にする作業,捗っていない気がする.自分の内面や問題意識を,形あるものとして認識しなおして,それを世の中に表出していく作業,自分にできてるかっていうと自信がない.いたずらに理論武装してきたところがあるから,その虚な感じにさらに辟易する.
 まあいろいろ言ってもやることは決まっているのだがなあ.

2012年10月24日水曜日

無題・引用

日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011

家庭医を総合医あるいはプライマリ・ケア医といっても構わないが,かかりつけ医という言葉に置き換えるのは適当ではないことである.なぜなら,かかりつけ医は患者が選択し"かかっている"という事実に着目した概念である.したがって,大学病院かかりつけ医といってもおかしくないし,1人の患者が疾病ごとにかかりつけ医をもつことも語義矛盾ではない.しかし,家庭医の議論の本質はプライマリ・ケアを医療政策上どのように位置づけるのかということにあり,かかりつけ医という言葉を用いることは議論の焦点を曖昧にするからである.


雑感・社会的入院

 社会的入院へのニーズがある.それは,患者・家族の側から,そして,医療従事者(多くは医師)の側からも.
 患者自身の医療の必要度から言って,過剰な医療を提供される病床での,社会的入院.「そこじゃなければならない」ではなく,「そこしかない」みたいな理由で選ばれる.
 需要と供給のミスマッチが存在する.より医療を少なめにしたような病床へのニーズが高いのにもかかわらず,そういう病床が足りていないわけだ.

 社会的入院は,しばしば医療従事者の儲け精神だとか,患者・家族の過剰な心配だとか,そういう観点から批判されたりするように思うが,むしろ需給のミスマッチととらえた方が捗りそうではある.だからといって問題は解決しないが,とはいえ無意味に対立するべきでもないように思う.

2012年10月23日火曜日

雑感・『社会を変えるには』

各地方から選出される代議士に「代表されてる」感は乏しいが,地元のサッカーチームや野球チームはやはり「地元の代表」という感じがするのはなんとも不思議ではないか.

医師ー患者関係についての議論

 おおきな枠組みというか,考え方の軸としては,「患者中心の医療」(patient-centered medicine).とはいえこれ自体は明確な医療のスタイルを定義できない.消費者主権的なあり方でもって患者=消費者が医療を選び,消費するというのは恐らく間違いで,一方で(当然のことながら)医療従事者が患者情報を掌握し重大事項の決定権を独裁的に握るというのも誤りである.そして更に議論を難しくするのが,患者が求める医療が,かならずしも医療として正しくない可能性もあるということで,医療情報の非対称性や,医療情報の高度さおよび入手しづらさ,また,効果のないサプリメント等を詐欺的に売り込む業者の存在などである.患者中心と言うとき,それが何を意味するのか適切な定義が必要である.また,その中で鍵となるのが医師ー患者関係のあり方だろうと思う.

 医師ー患者関係といってもいろいろありそうで,実際的な関係,法律上・制度上の関係などなど.そのあたりは分けて考えなければならない.

雑感・社会保障論

医療供給体制のうち,医療従事者として筆頭に挙げられるのは多くの場合医師であり,それゆえ医師以外にはこの問題を議論する本質的な動機が無いのじゃないかと思われる.よほど,正義や義憤に駆られない限り…

2012年10月22日月曜日

医療保険制度の一元化にかんする論点


日本の医療 制度と政策,島崎謙治,東京大学出版,2011

 現行の医療保険制度は被用者保険と地域保険の二本建てとなっている.これはもともと,1922年に労働立法として健保法が,また1938年に農村の疲弊を救済するために国保法が制定され,田畑や農地をもつ農民がムラ・地域単位で形成する地域保険と,「カイシャ」(企業や官庁など職域共同体)単位で形成する被用者保険をベースとした保険制度が確立したことに端を発する.しかし高度経済成長を経た20世紀後半になって,社会経済の変化に伴い保険者の実態は変化した.とりわけ国保に強い影響があらわれ,2007年度の国保の世帯主の職業構成は,無職者(その多くは高齢者)が過半(55.4%)を占め,農林水産者(3.9%),自営業者(14.3%)を合わせても2割に満たず,被用者(国保内被用者)の23.6%より小さくなっている.農林水産者,あるいは自営業者の少なさに加え,国保内被用者の割合が低くはないことからも,被用者保険と地域保険の境界が曖昧になっていることは間違いない.医療保険制度を地域保険に一元化すべきだという見解が登場する背景である.


Q. 医療保険制度を地域保険に一元化すべきか?

反論1:稼得形態の違い.自らの権限と責任で事業を営む自営業者と異なり,生産手段をもたず他人に雇われ生計を維持せざるを得ない被用者については,その稼得形態の性格上,労働保険(労災保険および雇用保険)だけでなく医療保険においても一定の配慮を必要とする.保険料が労使折半となっているのもそのためである.仮に地域保険に一元化した場合,事業主は保険運営に関わらないため保険料の事業主負担の根拠が喪失する.これは財源確保の問題もさることながら,被用者に対する社会保護政策のあり方の根本に関わる問題である.

反論2:所得捕捉率の相違.収入そのものの補足の問題と,必要経費の補足の問題がある.自営業者の所得や経費を完全に補足するのは不可能であり,一元化したとしても結局は別体系での保険料の賦課・徴収となりうる.

反論3:原則と例外の関係.非正規労働者が増大しているといっても,被用者保険加入者が全体の約6割を占めている.将来的に考えても雇用という形態が廃れることは考えにくく,従って行うべきことは,原則を例外に合わせることではなく,被用者保険と地域保険の二本建ての体系は維持した上で,被用者の範囲について必要な見直しを行うことである.

2012年10月18日木曜日

WoE; Ex 2:1

Q. 中年女性の脳卒中リスクにおける喫煙の影響について調べられた。曝露(喫煙)のどのような側面が考慮されるべきか?曝露、非曝露群はどのように定義されるべきか。
 
脳卒中リスクに影響する因子:年齢、性別、既往歴(糖尿病、高血圧、脂質異常症)、家族歴、生活歴(喫煙)
喫煙という曝露について:喫煙本数(/月)、含有成分の濃度
曝露、非曝露の定義:current smoker, past smoker(x年前にやめた), never smoker
 
A. aspectsにかんして:量と頻度ー例えば、一日平均何本吸うか。たばこの種類ー例えば、サイズによって、フィルターによって、または有効成分(有害成分)の濃度によって。喫煙への姿勢ー例えば、吸入の深さ、残りたばこの量。その他には、パターン、タイミング、一回の喫煙時間などによっても検討していいだろう。
categoriesにかんして:曝露群は、多くの場合で一日平均本数による(例えば、1-4, 5-14, 15-24といったように)。これは異なる時期での分類に有用だが、一方でこの分類は現在の喫煙者にのみ当てはめうるものであり、"past smoker"については単一の分類となってしまう。その他の方法としては、例えばたばこの種類や喫煙への姿勢によっても分類できる。非曝露群は、never smokerのみを組み入れるべきだろう。
 
 
感想:当てもせず、外しもせず。実際に研究するつもりで回答した方がいいと思った。

2012年10月17日水曜日

Workbook of Epidemiology; 2 Asking the Right Questions

 「この病気の原因は何だろうか?」と問うこと,あるいは病気がどのようにして起きるのかを解明することが科学のひとつの本質,あるいは目的である.あるいは予防医学や公衆衛生学などの分野においては,その病気の予防もまた目的となる.
 いま,この命題を原因を曝露exposure, Eとし,結果を病気disease, Dとしたとき,
  「EはDの原因か?」
と書き直す.むろんあるDに対して原因は様々だろうから,より妥当には
  「EはDのリスクを上げるか?」
と書ける.さらに付け加えると,
  「EはDのリスクを上げるか? また,その程度はどれくらいか?」
さらに,
  「EはDのリスクに影響するか? また,リスクの増減いずれなのか,またその程度はどれくらいか?」
と書けるだろう.
 こうして,医学における基本的な問いをより"特異的specific"なものに書き直した.ていねいな問いに練り上げることは重要であり,それは研究デザインや,研究の規模を既定することになり得るのである.

影響をどう測るか

相対的な効果relative effectによって.疫学指標的にいえば,relative risk, RR.

曝露

簡単に,「高脂肪食の摂取は,心筋梗塞のリスクに影響するか? もしそうなら,リスクにどう影響するか,また,それはどれくらいか?」という問いを立てるとする.曝露としての「高脂肪食の摂取」は,様々に定義・表現できる.
 脂肪の種類はどうか;飽和脂肪酸,不飽和脂肪酸など
 曝露のタイプ;量,頻度,期間…

導入時期

曝露の表現にかんして.喫煙と肺癌のリスクについても,喫煙と潰瘍性大腸炎のリスクについても,喫煙への曝露がどの時期にあったか,やめてどれくらい経つか,などの因子があり,これらを勘案しなければならない.

病気

病気といっても様々ある.脳卒中とひとことに言っても,血栓性脳梗塞や出血性脳梗塞など,病態が異なればリスク因子との関連も変わる.

調整因子

所与の因果関係の外部から,この関係に影響する因子があり得る.たとえば,急性下痢症のリスクを考える時,患者がワクチン接種者か,非接種者かによってそのリスクの評価は変化する.この場合には,この調節因子を排した研究デザインとするか,あるいは始めの問いを「非接種者における影響は?」などとより特異化したり細分化したりするなどして,立て直しをする必要がある.

その他.


2012年10月6日土曜日

統計学をどう捉えるかは,科学リテラシを測るものさしのひとつになりうると思う

以下のようなツイートを目にした.

私ははっきりいって統計学が嫌い。統計学ってどこかうさんくさい。前提があっていれば確かに厳密に結果は正しいのだが、その前提が疑わしいことが多い。凡人は統計の数学的処理でエネルギーの99%を使い果たしてしまう。平均と標準偏差くらいでいいんじゃない?後は直感のほうが正しい気がする。
https://twitter.com/elm200/status/254223200773345280

「正しい」という概念がまず,統計学がどうして科学に導入されたかという経緯を見過ごしている.かつて,ニュートン科学が発達したころは,原因と結果が1対1対応する現象が多く見出され,「科学は真実」だとされた.それは妥当な認識だろう.
細かい科学史について言及することは避けることとして,量子力学や生命科学,医学などはあきらかに「原因と結果」が自明でない.というか,誤差を含みつつも「確からしい(すなわち,確率論の議論)」現象を見出す作業が中心となっている.科学観というべきか,あるいは科学をどう認識するかということは,ゆるやかにラディカルに,変化している.

冒頭で言及したつぶやきに関して,彼自身の科学に関する洞察が浅いというわけではなく,「多くの人が科学とは,真実を明らかにする作業だ」と思っている風なのである.あるいは確率論的議論に弱く,確率論のファジーさを許容できない,その状態に耐えられない人が多いように思う.

統計学がかなり恣意的に利用されている節があるのは事実である.そういう恣意性を排除する方法や,批判的吟味 critical appraisalの方法論についても確立されつつあるが,一般の人にとってはアクセスが難しいだろうし,習得にも手間がかかることは否めない.統計学をもっとアクセス可能にすることは重要だが,それは統計学者によってなされることだろうと思う.むしろ,これから求められることは,社会現象や科学的問題を実際に統計学的あるいは確率論的議論により解明・説明し,その結論をより平易で,わかりやすく統計学的分析をプレゼンテーションすることだろうと思う.

ともあれ,冒頭の発言者はかなりの教育を受けた人であり,学ぶ姿勢を捨てることは,褒められたことではないだろうが.

2012年10月5日金曜日

無題・引用

ところが、ぼくはあの、なんと呼んだらいいか知らないが、ある種の無邪気さのために起る貧困化を見ると、どうにも腹が立ってしようがないんだ。

『アンナ・カレーニナ』 トルストイ

2012年10月4日木曜日

古典は,古くならないからこそ古典と呼ばれる.

現代の,科学やそれに留まらずあらゆる領域で,専門性の先鋭化が進み,その隙間に落ち込むものが出てたり,大局観を失いジリ貧に突っ込んだりする.専門外を知るための一連の努力に必要以上のリスクを感じる必要はなく,むしろ自らの専門に返ってくる示唆を得られるのではないか.まさに,急がば回ることである.
非常に今日的話題ながら,それが1940年代に書かれたものであるというのが興味深い.まあ,戦争周辺だし様々なものがラディカルに発達した時代なんだろうが.

無題・引用

 われわれは,すべてのものを包括する統一的な知識を求めようとする熱望を,先祖代々受け継いできました.学問の最高の殿堂に与えられた総合大学(university)の名は,古代から幾世紀もの時代を通じて,総合的な姿こそ,十全の信頼を与えらるべき唯一のものであったことを,われわれの心に銘記させます.しかし,過ぐる100年余の間に,学問の多種多様の分枝は,その広さにおいても,またその深さにおいてもますます拡がり,われわれは奇妙な矛盾に直面するに至りました.われわれは,今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が,今ようやく獲得されはじめたばかりであることを,はっきりと感じます.ところが一方では,ただ一人の人間の頭脳が,学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは,ほとんど不可能に近くなってしまったのです.

『生命とは何か 物理的にみた生細胞』シュレーディンガー

2012年9月19日水曜日

9/18

よのなか,「あれかこれか」という「選択と集中」を旨とする潮流はあれど,個人の実践においては「あれもこれも」でないといけない局面は多々あって,Aの勉強をしないといけないから,Bは切る,という手法が最善とはいえ(事実上の)実行不能であって,Aの勉強をしながらBもやらざるを得ない,みたいな事態は甘んじて受容せねばならんのである.

本日休業状態.
ワイン食堂Baccoへ行く,よい料理.酒はまずまず.グラスワインだし.
昼もカベルネを飲み,夜も同じものを飲んでしまった.昼はフランスの,夜はチリの.
チーズ(青,チェダー,カマンベール,他),サンマとじゃがいものサラダ,肉とトマトのソースのペンネ,鴨.7100円.

試験は近い.暗記をやろう.

2012年9月18日火曜日

9/17

世の中,世間知レベルで表にはでてこない知識が多い.というかたぶんほとんどそれ.観測可能な範囲が狭すぎる.それをもとに「おまえはバカだなあ」といわれるのはたまったもんじゃないし,そもそもバカって罵られる事案というのは,バカさが事実としても,

  1. あえて,直接言ってる(善意あっての行為)
  2. たんに,罵るため(悪意)

の二通りくらいあって,どっちになるかは「自分のこれまで次第」なのだろうと思う.つまり,漠然と言えば「君はこれまで誠意を見せてきたか」とか,そういうの.

こういう,「彼自身のこれまでの姿勢」みたいなものって,教える/教えられる の関係上,非常に重要だと思っていて,高慢なやつ,不愉快なやつには教えられないケースがままある.とはいえ,媚を売ったりすることを推奨しているわけではない.逆に媚を売らなきゃ教われないことって,たぶん大した価値がないか,媚を売るコストを払ってまで得ようとすべきことじゃない.まあそれは正論的な話に過ぎなくて,実際こうもいかないんだけど(外科的コミュニケーションはしばしば不合理である).

こういうありかたを,ぼくは漠然と「コミュニケーション」と呼ぶんだけど,ちょっと語弊があるのかもしれないなと思った.関係づくりとかそういうイメージがよいんだけど,いい言葉を知らない.

勉強不足.
医学ももうちょっとやらなきゃ.

疫学勉強会,始めた.ひろげよう.

2012年9月17日月曜日

ベッドサイドへの羨望とか.

心はほとんど決まっているのだけれど,時々無性に,臨床で働きたいと思うことはある.
臨床医の日々を垣間見ると,無論,いろいろ(自分にとって)ネガティブなところもみえるのだけど,でも,あの限界で闘っているからこその団結とか,生の人と人の繋がりみたいなのとか,とてもよいなと思う.手術室の医療者休憩室で,大晦日を過ごすの.電気コンロに鍋のせて,オペ看と,当直医と.それはある意味でブラックな働き方なのだろうと思うけれど,そういう一般論的批判っていらなくて,自身が納得するかたちならいいのだと思う.家族のことを考えると,それってどうなのというところはありそうだけど,夫婦そしてその子どもっていう超近い関係なら,ロジックじゃないコミュニケーションもできると思うし,それは自分がどこまで勝負できるか,っていう問題のように思う.

ああ,一般的に,っていう話はいつもそれなりな妥当性はあるんだけど,それをそのまま,自分や誰かにあてはめることは不可能に近い.社会的な問題の解決法,あるいは自分の将来予測なんかには使えても,自分自身の今の決断には参考程度にしかならない.自分の価値観を丁寧に整頓して,意思決定しなければならない.なまじ,そういう一般論を摂取する機会が増えたから(情報化によって?),意思決定には「時間がかかる」し「いろいろ考えなければならない」のだろう.

自分の腕だけで,ギリギリの命の最前線と闘うからこそ,できるチームってあるんだと思う.そうだ,大学でそういうチームに出会ったんだった.
マクロな仕事をやろう,というのは単純に自分の趣味みたいなものだけど,それってどこまで血が通っているんだろう.どれだけ「一般論」に毒されているんだろう.

自分が心の底からやりたいことって,あちら側のような気がするなあ.どうしよう.

2012年9月16日日曜日

そういえばこれ,勉強記録残すみたいなの目標のひとつだったよなと思い出した

まあ,いいんじゃないですかね好きにやれば.

ランニング.
9/16 6km/34min.
9/14 6km/37min.
9/13 6km/34min.
当面は5min./kmのペースでいけるよう訓練が必要.とはいえどうやらあまり速く走ろうとするより,ぜいぜいいわずに連続してある程度まとまった時間走るということをした方がよいらしい.たぶん精神的な意味で.必死こいてやったのと,地道でも継続したのとでは恐らくアウトカムに大差がないんでしょう.なら後者でいいじゃないかということだと思う.1時間ほど走れるようにすべきかなぁ.はてさて.

勉強
ペースはまずまず予定通りだが,そもそも設定したペースがぬるすぎる可能性は微レ存.もうちょい追い込みが必要なくらいやるべきか.むむ.

2012年9月14日金曜日

9/8付 週刊日本医事新報

『受療者と医療者で「医療価値の見える化」めざす 受保連が発足』9/1
へぇ。受療者医療保険学術連合会なるものが発足したのだと。当面は在宅医療などいくつかのテーマについて議論・研究を。
 
『特定看護師の話題』
医行為の分類などの議論が進む。教育内容基準案では、幅広い特定行為を実施するための2年以上の養成過程と、一部の領域(現時点では「救急」「皮膚・排泄ケア」「感染症管理」の3分野、今後必要に応じて追加の予定)に限定した特定行為を実施するための8ヶ月以上の養成過程を設ける方針と。
いろいろな話はあるし具体化してるとこなのだろうが、この制度が結局何をどうしたいのかが分からなくなっているような気がする。ワーキンググループの議論は、もともとは「チーム医療推進会議」の下部組織みたいなもんで、じゃあチーム医療のためにこういうことやってるんですかっていうと、いやそもそも看護師の本懐って看護であって医療じゃないですしみたいな本質的なところがスルーされており、この制度は土台うまくいかないのじゃないかと思う。
とはいえ医療行為の実施可能性がチームを推進する可能性もあるのかもしれないし、そこらへん現場レベルでどう感じるのかは気にはなる。
 
『RFO理事長の尾身茂氏』
独立行政法人年金・健康保険福祉施設整理機構(RFO)理事長の尾身さん。政治的な人事だなあ、こうやって総合医を進めるんだね。
 
『私はなぜ「医療は永遠の安定成長産業」と考えているのか?(二木立)』
医療費はしばらく増えるでしょうが。それをもって、成長産業というのはどうかな。
医療費の原資は、保険料と国庫支出と患者負担だけど、保険料は若年労働者から医療受益者(多くは高齢者)への再分配の色が強いから、保険料の増加は必然的に若年労働者の家計の逼迫を招くし、国庫支出はこれに加えて国債に頼るところが大きくて、医療が投資として経済発展に寄与するならともかくそうでもないわけで、純然たる借金となる可能性低くないし、あまりなあ。
 

米連邦公開市場委員会,QE3へ

米国は財政政策をがんばっていますねえ.日本のことは知らない(だめな子…

だいたいまとまっているのが以下.

UPDATE1: バーナンキ米FRB議長の会見要旨
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPJT823398920120913

量的緩和 Quality Easing; QEの第三弾が今回.住宅ローン担保証券(MBS)を月額400億ドル購入するのだそうで,上記リンク先のバーナンキさんのコメントとあわせると,なんともインタゲ感すごい政策なのだなぁと思いました.
とはいえ,これまた上記リンク先のバーナンキさんの声明にあるとおり,

インフレは近年、干ばつや地政学的な緊張など種々の要因による食料・燃料価格の変動に伴い変化している。だが全般的なインフレ率は、平均して目標の年率2%に極めて近い水準でここ長年間推移しており、さまざまな指標は長期インフレ期待が非常に安定していることを示している。
のだそうだし,インフレ率的にはよいのだけれど,失業率高止まっちゃってるねというところが問題らしい.ちなみにMBS購入打ち止め時期に関してもぼんやりしていて,
 労働市場の持続的改善と失業の減少を促すほど経済が強いことを示す兆候に目を向ける。完全雇用を回復するまで購入を継続できるわけではなく、それが目的でもない。新規雇用を生み出し失業率を低下させるのに十分なペースで経済が成長を始められるよう、回復を加速させることが狙いだ。したがって、この点がわれわれの基準となる。
なんだって.ここらへんはAffordable Care Actの感じと似ているなぁ,と.いやそれはどうでもいいこですが.

手詰り感あるなかでがんばっていますが,失業率は大変な問題ですね.日本の失業率もきっとそれに近付くことでしょう.SHARPみたいな企業が行きて来れたからこそ,日本は低い失業率だったのだろうと思うわけですが,それももはや,って感じでしょう.

世紀末やなぁ…

2012年9月8日土曜日

無題.

愚かな人ありては、聡明なる人が愚者に対して嫌悪を感ずるよりも百倍多くの、聡明な人への反感が見出さるる事を知れ。
ーサーディー『ゴレスターン』 

2012年9月7日金曜日

9/7

長野から帰る.2泊3日.遠い.御来光,温泉,池でボート,バーベキュー,飲み会,など.久々に旅行らしい旅行をしたような気がするが,まあ,やはりそれほどニーズがあるわけでもないなあという感じ.とはいえ嫌いと積極的に嫌悪するわけでもなく,単に金銭的余裕のなさによるものな気もする.





温泉に入りまくったのはよかった.という感想も,おじんなのかもしれない.

Advanced OSCEの直前.ネット上にはあまり情報がないもよう.わりと緊張感はある.ここのところ,ベッドサイドからはかなり離れているからだ.

国家試験や卒業試験に向けてやるべきことを書き出す.割と大量にあって,自分の勉強をかなり圧迫するだろうことが予測される.計画的,というより,力ずくでやらねば.

Tecom眼科 3
Success 1-血液
日本の医療: pp. 255-264
『社会学講義』

5km/25分.

2012年9月3日月曜日

9/1

久しぶり、普段の地に戻る.インターンシップというのは、我々界隈ではあまり一般的でないのだけれど、いい経験にはなる.しかし、経験知はいずれは風化するので、その前に適当なところに落ち着けておきたいところ.最終日にボスにしたプレゼンをリバイズして、同級生にシェアしたいものだ.

勉強は相変わらず.もう少し本業に割かなければいけない.

読書; 理性の限界、近代日本史、日本人が知らない漢方の力、ONE PIECE 67巻、美術手帖 2012/9月号

日本の医療; またかく

MEC夏模試 DEF問題

4km/30分.散髪.

2012年8月20日月曜日

8/20(インターンシップ1日目)

さすがに緊張はした。集合時間を間違えたため、1時間早く着いてしまい、日比谷公園を歩いたり、落ち着かない中でマクドナルドのアイスコーヒーを飲んだりした。気もそぞろだったが、ここのマクドナルドはセルフサービスで自分の好みの氷の量にできた。それどころじゃなかった。

人間関係は良好。上司の考えていることが見えにくいが、コミュニケーションを取る機会が少ないのと、恐らくそういう立場にいることが影響しているのだろう。こういう界隈に来る人はほぼ間違いなく「いい人」なのだが、それが知的な研鑽を経ているかというと必ずしもそうではない。むしろ感情と論理を混交しない議論がどこまでできるかを見定めたい。

会議に参加したが、臨床医とのやりとりが非常に印象的だった。この臨床医も相当な強者であって、全ての臨床医がこの質ではないが(それはある種問題でもあるが)、明らかに認識不足があり、あるいはバックサポーターたる専門家も認識不足なのではないかと思わせられる場面があった。

自分がやってきたことは間違いでなかったとの確信はある。一方で周囲があまりに低レベルだった場合、また場所を考えなければならないだろう。

東京1日目

朝6時着。その後、スロースタート。

すた丼を始めて食う。牛肉を使ったもの。ステーキソースの味はうまいが、やはりB級グルメな感じ。人生、食事を取れる回数は限られていると言われるけどこんなのでいいのかなぁと思うも、割とこういう類の食い物は嫌いじゃないので、いいでしょう。

2012年8月18日土曜日

-8/17

勉強日記を怠る.

Cope's: 読了.
それなりに得るものはあったが,「とりあえず通読し,気になったら戻る」タイプの教科書でよさそうである.虫垂炎,膵炎,憩室炎,小児関連あたりは復習してもよいか.

MEC夏模試復習: ABC問題が終了
長くかかる.
細かい知識を詰めるより,TECOMのノートの復習をするつもりで見直すのがよいか.

Justice: 1-1, 2
川本さんの『ロールズ』をサブリーダーとして,徐々に読むこととする.1日1節.
概念的な話はやはり難しい.法律用語も馴染みがない.

日本の医療: #2
歴史の考察終了.
現在でも議論されているテーマ,20年くらい前あたりからも既にかなり議論されており,政治的紛糾や実現可能性レベルでの頓挫などにより,現状に繋がっているようである.下らなく思うが,まあそんなものなのだろう.
ちなみに,日本医師会はやはり,存在価値はあるのだろうか,公共的にはもはや,弁護してやる余地の無いレベルでアホな事を言っている.

共同幻想論: 継続
日本近代史: 継続
吉本隆明は,終風さんを意識して,読みたく思ったのだと思う.『カール・マルクス』も読むべきだろうな.
日本史は継続.教科書が欲しいが,あまり広げても仕方がないかな.

勉強時間は低下気味
来週は,インターン.

2012年8月16日木曜日

「保険者機能の強化」にかんするおぼえがき

・保険者機能の強化,と言われるとき,論点は以下のようである.
・海外の保険者との比較;日本は雇用者別の保険者制度であり,数が多く分散している.
・従って,コスト意識に乏しい.
・一方で,国民/患者,医療提供者にはコスト低減にたいするインセンティブが少ない.
・ゆえに,保険者機能の強化を云々.

本来的な,理想論的なことからいえば,コストの低減は保険者間競争の導入のような資本主義・功利主義的観点から行うよりも,「こうした方が予後がよく,コストも少ない」といった医療アウトカムと経済的合理性をミックスしたような知見からなされるべきなのだろう.ベッドサイドからの知見が必要になる.でなければ,資本主義的発想に堕することになるだろう.

-8/15

Cope's: p. -282
Justice: まえがき

模試提出.830/1000点で,難易度の割にはまずまずだろう.
急いで国家試験対策が必要な感じはしないが,皮膚,眼,耳鼻あたりは早めに手をつけておきたい.というのも,これらの診療は明らかに初期研修で役立つからである.志の高い専門医を寡聞にして知らないのでそれは残念なことだ.

手紙を3通提出.かなり遅くなってしまった.

県立美術館へ行く.シャガール展.
触れ込みよりも,ダークな印象の絵画が多い.大戦の経験,妻への愛(と,それとの裏返しで妻との死別のダメージ)などが反映されてのことだろうか.独創的なモチーフも多く,正直理解不能であった部分も多々ある.
展望としては,キリスト教的価値観についてすこし学ぶ機会をもつべきだろう.典型的な宗教画という感じではなかったが,ある程度の価値観の反映は感じられた.図像学についても学ぶべしとの教えを頂いたので,やってみようか.西洋美術史も積読になっているはずだ.

The Theory of Justiceと,川本さんのロールズを購入.避けては通れない考えなので,取り組もうと思う.

過重になってきた感がある.Cope'sから順に終えるようにしていきたい.

2012年8月15日水曜日

Things for Mac/iPhone/iPad メジャーアップデート

ToDo管理アプリ,というとiPhoneその他スマホのお家芸的アプリケーションではないだろうか(意味がよくわからない).さまざまなものがあったが,導入当初はいろいろ調べたものの今となっては忘れている.Omni系のタスクアプリもあったよなぁ,名前忘れたけど.
当時,シンプルUIということで,もういいや的に導入されたThingsであったけれど,Mac-iPhone間での同期にあたってWi-Fi経由でないといけないという制約があり,地味に面倒であった.とはいえこの制約により,自宅や大学でのWi-Fi環境が整備されたのでけがの光明的効用はあったわけだが.

それがこの度の8/9のメジャーアップデートとともに,Cloud対応されたので,早速アップデートしてみた.
Cultured Code, Blogより.
http://culturedcode.com/things/blog/
かわいいよね,センスあるよね.

アップデート内容については,他ブログでいろいろと言われているようなので,「Things アップデート」あたりで引いていただければ.

とりあえず,学生でThingsを導入しようとしている人は,「Cultured Code Educationストア」で,学割販売されていることは知っておくとよいだろう.15ドルほど安くなる.

快適なCloud生活を.

epidemic pleurodynia 流行性胸膜痛[胸膜炎]

胸膜痛 pleurodyniaは発熱と,胸腹部の筋の発作性攣縮を特徴とする急性疾患である.多くのケースは思春期〜成人の間に,夏季の局所的なアウトブレイクとして起きる.アウトブレイクの間隔としてはそれほど頻繁ではなく,およそ10年程度の間隔で地域内または国家間のアウトブレイクが起こり,大勢の年長の子どもたちと若年成人を巻き込まれたことが報告されている.1949年には,group B コクサッキーウイルスが,流行性胸膜痛の最も重大な原因となった.その他に,稀ではあるがエコーウイルス1,6,9,16,19と,group A コクサッキーウイルス 4,6,9,10などが原因と考えられている.胸膜痛は時としてより重大な疾患,たとえば細菌性肺炎,肺塞栓症,心筋梗塞,(外科的介入を要する)急性腹症,帯状疱疹ウイルス感染症などに似ることがある.多くの患者は4〜6日間で経過する.子どもたちは成人より症状は軽いが,ベッド上安静とされる.

Ref. Uptodate; Clinical manifestations and diagnosis of enterovirus and parechovirus infections

2012年8月11日土曜日

8/9-10


Cope's: pp. 208-

PALS: p. -212(進行なし)

『近代日本史』:

8/9役人と飲酒.将来について重要な示唆を頂く.留学について要検討.
留学,「必要性」の観点から言えば,あまり前向きではない.ひとつに,公衆衛生・医療政策界隈で留学を経験している人が周りに少ないこと.ひとつに,医師の中には正に「ファッション留学」みたいな状態の方が少なくないこと(これは見せ方によるのかもしれないが).ひとつに,米国で学ぶべきことがあるのか(それは日本で学べないのか)ということ.とはいえいくら声高に「知識がある」ことを叫んだとて,それを立証する術がないし,論文も書けないだろうし(いや,書くこと自体は原理的には可能だが),あまり本質的な「何を学ぶか」といった観点で考えるよりも,単純に箔をつける意味で行けばよいのかもしれない.というか,むしろ一般論的には「留学もしていないなんて」という状態なのだろうが.あまり斜に構えて無益な自己満足に浸らぬようにしたいものである.とはいえ,留学をしようとなるとどこまで医師をやるかという問題が浮上し,面倒なのであるが.

大きな絵を描くことにたいして,順応性はあるように思う一方,将来の不確実性などに関して考える体力が低いように感じる.現状評価,予測,シミュレイション,コストベネフィットを考えて行動しなければならない.要検討である.

2012年8月10日金曜日

おめでとうと,ありがとうと,あといろいろ.

なでしこ,凄かった.
アメリカも,とっても強かった.

敵ゴール前の人数が薄いように感じたけれど,器用に繋いでシュートを打っていた.あるいは,相手がやや疎,というか雑だったのかもしれない.アメリカは非常にパワフルだった.南米的なメガトンパワーではないにせよ,やはり体格相応の迫力があった.あれらのゴールは,流石なのでしょう.
たしかに,後追い的に選手交代していたような印象はある.いいリズム,流れだったところを寸断するような選手交代.まあ,後からは何とでもいえる.

陳腐だけれど,勇気をもらったような気はする.
あの走りはロマン.

2012年8月9日木曜日

Meta analysis メタアナリシス について

早速,定義について引用しよう.
As aptly defined by Petitti, meta-analysis is a "quantitative approach for systematically assessing the results of previous research in order to arrive at conclusions about the body of research" on a given subject.
Petittiによる適切な定義は,ある所与の対象について「過去に行われた調査結果を体系的に評価するための定量的アプローチで,研究の"本体"に関する結論に至るためのものである」というものだ.

"the body of research"とは難しいが,さまざまな先行研究の統合体たる本体に至るための研究である,というような意味だろう.まさに統合こそがメタアナリシスだと言っていい.

メタアナリシスと言うと,"The Cochrane Collaboration"が知られているところである.メタアナリシスを行うにあたって,さまざまな研究を統合し評価が必要となるが,あらかじめcriteria 基準を用意しておいて,それを満たす研究のみを対象として評価を行うこととなる.コクラン・ライブラリに収載されるメタアナリシスは,コクラン・コラボレーションの所定のcriteriaに従い,認定を受けたメンバーによる査定が行われるとのことで,一定の品質を保った統合研究を生み出している.
疫学研究の推奨グレードA,エビデンスレベル1aの,文字通り最強の研究といえる.

コクラン・コラボレーションのWebサイトのロゴ.
メタアナリシスではお馴染みの「フォレストプロット」をロゴに取り入れている.
http://www.cochrane.org/
なにかと取り沙汰されるメタアナリシスであるが,今回はその短所について述べておく.

"統合された結果"をどう用いるか

「偏りがないこと,極めて一般論的であること」それ自体の弊害がある.
とにかく,いろいろな研究をていねいにすり合わせて,統合したものなので,その分バイアスの存在を防げたり,均質性を担保したりすることが可能になる(理論上は).しかし,実際問題として,ベッドサイドでその結果を応用しようとすると,当然のことながら「目の前の人は,オンリーワンである」.程度問題ではあるが,バイアスフリーなメタアナリシス研究と,たとえばその地域独自のpopulationを対象にした研究と,どちらがより有意義な結果を導けるかといったら,前者が必ずしも蓋然性が高いとはいえないように思う.あまりにピュアな結果は,応用が難しくなる可能性を孕む.
要は,この結果はあまり,ベッドサイドで使うものではないように感じる.そこまでの純度は,正直なところ不要であろう.絶対主義的にメタアナリシスを信奉し,バイアスを憎むことは間違いである.

もっとマクロに応用すること

メタアナリシスが有用であるケースとしては,
  • decision analysis 決定分析
  • analysis of cost-effectiveness of interventions 介入の費用効果分析
等が挙げられる.要は,もっとマクロな(ベッドサイドよりも)シチュエーションである.小さなバイアスであろうと問題になるケースでは,メタアナリシスは非常に有用であり,必要とされる研究だと言える.


あらゆる疫学的/統計学的解析には,長所と短所があり,相対的に比較し,バイアスに過剰反応するような,無価値な教条主義的態度をとらないようにしたいものである.研究はベッドサイドや病院,地域,国家あるいは世界全体にたいして,よりよく応用されてこそ,である.正しい知識と,誠実な態度で.

8/7-8


Cope's: pp. 190-207

Epidemiology: pp. 364-終了.

PALS: p. -212(進行なし)

『近代日本史』: p. -124(進行なし)

Mec小児科: 14, 15

Tecom耳鼻科: 2

更新をなまけている.
8/7は久しぶりに友人と飲んだ.料理は普通.酒は旨い.友達は有り難い.ビール5杯.
8/8は走った.5km/25min. 走法の改善によるのか,膝の痛みは極軽度.

2012年8月7日火曜日

bias バイアス

結果や推論の事実からの系統的なずれ.あるいはこのようなずれをもたらす過程.研究の概念やデザイン,あるいはデータの収集,分析,解釈,講評またはレビューにおける誤差であり,真実からは系統的に異なる結果や結論を導く可能性がある.バイアスという用語は,必ずしも先入観やその他のいかなる主観的因子(例えば,特定の帰結を求める観察者の願望といったこと)をも非難するという意味を伴っているわけではない.これは,パルチザン的観点から(偏見や不公平という意味で)習慣的に使ってきたバイアスという言葉とは異なっている.

Ref. 『疫学辞典 第5版』 Miquel Porta 編,日本疫学会 訳 2010

Biological plausibility 生物学的整合性

原因判定 causal criterion の基準の1つで,ある観察された関連が今までの生物学的あるいは医学的知識に合致していること.しかし,既存の知識に合致しないという理由で因果関係を否定すると,新しい知識の発展を阻害することもあるので,この判定基準の適用には慎重でなければならない.可能性がある,もっともらしい,矛盾しない,一貫しているという連続した図式の上でいうと,もっともらしいという用語は臨床医学的および疫学的な観察の背後にしばしば存在するかもしれない多くの生物学的な機序の元では,厳密な必要条件ではない.そのため,因果律の評価においては(生物学的,臨床医学的,疫学的な)一貫性を要求する方が論理的により適切かもしれない.

Ref. 『疫学辞典 第5版』 Miquel Porta 編,日本疫学会 訳 2010

8/6(昨日)

Cope's: pp. 172-189
obstructionの話は鑑別診断など派生的な内容。voluvulus, colitis, uremiaなどなど。uremiaで腹部膨満が起こるのは意外かもなあ。それからintussusceptionなどの話。子どもに多い。meconium ileusなども。

Epidemiology: pp. 353-363
Part V; Issues of Reporting and Application of Epidemiologic Resultのセクションになる。応用的な内容になると、基礎が見直したくなってくるのよね〜。ここから振り返りながらやらないといけないね。結構いい内容が多い。統計学的有意性の間違った解釈などの話。統計学だけやってるとこういう誤りを犯しそうだけどどうだろうか。readabilityの話で、SMOG index スモッグ指数など。難度の高い英単語の使用の程度からどれくらいの教育レベルの人まで対象にできるかという指数。まさにcommunicationであるなあ。

PALS: p. -212ショック、ちゃんとやらないとね。まだまだ。

『近代日本史』: p. -124

Mec小児科: 11, 12, 13

Tecom耳鼻科: 1
はじめました。



2012年8月6日月曜日

線形相関係数おぼえがき

Linear correlation coefficient 線形相関関数
Rank Correlation 順位相関
Linear regression 線形回帰
あるいは,Pearson's product-moment correlation coefficient ピアソンの積率相関関数

連続データ(continuous data, カテゴリカルデータと対比される)における妥当性/信頼性の指標として,相関係数あるいは線形回帰を使う方法はお馴染みである.値はrで表され,散布図を書いて,最小二乗法で線を引く類のものである.
「相関と因果は別物」というのはよく言われることだが,今回はそのロジカルな違いについては言及せず,上記の方法による妥当性/信頼性の検定に係る陥穽に関しておぼえがく.

biasに対する"insensitivity"

この限界は,Pearson's rに関して,最も重要なものであると言えよう.
直観的にもわかるが,線形回帰は系統的な偏り=バイアスにたいし,完全に無防備である.
真の結果(赤線)に対し,観測結果が左方に偏位しているのがわかる.biased result.
http://www-users.york.ac.uk/~mb55/talks/rcrtalk.htm
上記のようなケースであっても,Pearson's r=1となってしまう.その他のタイプのバイアスに対しても,同様にPearson's rの値は不変となってしまう.
このような限界に対しては,上記のように散布図を書くとバイアスがすぐに発見される.バイアスの分を引き算するなり,バイアスの原因として考えられるものを分析すればよい.

Pearson's rは値の"幅"に大きい影響をうける

文章化が難しいが,より"長く"まとわりつくように散布するケースの方が,より"コンパクトな"ケースに比べてよりよいr値が出る傾向がある.従って,ある母集団のサブセットを解析しようとすれば,多くの場合nが減少し分散が減ることが予測されるため,Pearson's rが不当に低くなる可能性がある.
このような場合,Spearman correlation coefficient スピアマンの相関係数 を用いることにより,幅の影響を減少することができる.

Pearson's rを"帰無仮説と有意検定"することは無意味

あたりまえであるが,Pearson's rは相関を見ている.帰無仮説とはすなわち,相関が全くない(H0: r=0.0)であり,あたりまえに有意差がでる.このことは,「相関が無いことはない,ことが有意に認められる」ことを示すに過ぎず,ほとんど意味がない.
あるいは,r=0.3等の弱い相関であっても,nを増やせば有意差が出てしまう.が,これについてもそもそも論として,意味がない.
この場合,「ほとんど完全に相関する,と仮説(H0: r=0.95)」して,これとの有意差を検定することには意義がある.あるいは,相関係数の信頼限界を計算することもこの問題の改善として役立つだろう.

以上がPearson's rの主たる問題点であり,これらに留意し使用されるべきである.Pearson's rは頻用される検定であり,限界を知ってうまく利用する必要がある.

2012年8月5日日曜日

8/5

Cope's: pp. 153-171
Epidemiology: pp. 341-352
『近代日本史』: pp. 79-
Mec小児科: 8, 9, 10


水泳 500m/1hr: ウルトラ疲れました.まじ全身運動だね…


YoruFukurou, アップデートしたらバッジが変.また直るんだろうか.


熱中症にスポーツドリンクの件,ちょっとどうなんかなぁっていうのがあって調べようと思う.スポドリもNa濃度的にはかなり低張なので,Na補給という意味ではあまり使えないと思われる.BMJにも論文が.

運動時のお茶はNG 状況別水分補給のコツ
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0102P_R00C12A8000000/

Spicaさんが日本人論について言及していたけど,また今度これも読んでみよう.ロールズの読まなきゃ.電解質も勉強しなきゃ.ケーススタディもやりたい.精神科も.

白歴史の集積,Facebook.例外あり.

Facebookのあの息の詰まる感じはよくわかる.いや,自分もその雰囲気に与しているのだという自覚もあるし,そもそもFacebookってそういう場だろうということで,そこまで本気で批判したいわけじゃない.
単純に自分の中の閾値の問題だけれど,個人的な幸せの報告だとか,子どもの写真だとか,飲み会ウェーイだとかはあまり問題にならない.それはそれ,これはこれ,で自分を守れるし,変なイデオロギーのない,単純な幸福は見ててそれほど苦痛でない.
しかし,「わたし,こんなステキな仕事してます」「いろんな人とお仕事して,こんなにハッピー」みたいな投稿にはどうも辟易する.なんというか,善行積んでますアピールというような気がして,鬱陶しいような息苦しいような.

個人的な感情や体験,個人やその近傍で完結することがらについては,べつにどうということはないのだけれど,それを「社会的意義」みたいな大義名分に乗せる行為.穿った見方であると思う.単純な報告であり,ある種の個人的経験の報告の範疇のつもりなのだと思う.見せつけではないし(いや,見せつけは常に正当化される場所である),適当にlikeが付けばよいものだと思う.しかしなお不快なのは,その善行の向こうに承認欲求や顕示欲のようなものが透けてみえるからだ.当人自身の"真の"動機は,人助けであり仕事への矜持であったりするのだろうが,Facebookで観測される"見せ掛けの"動機が,そのような俗っぽい,いらだたせるようなものなのではないかと感じる.

家庭医界隈の,「地域の人たちとこんな交流」「子どもたちと云々」「お年寄りを家で看取りました」などといったさまざまな美談を,それ自体として受け入れられない.流行りの家庭医の仕事だからこそ,穿ってみえる.

こういう心性,不可解である.たぶん自分が変なのだ.

8/4

Cope's: pp. 141-153
Epidemiology: pp. 330-340
『近代日本史』: pp/ 51-78
Mec小児科: 5, 6, 7

ランニングを4.2km 40分.

そうめんチャンプルーおいしかった.
ランニング開始.水泳も.

2012年8月4日土曜日

κ統計量おぼえがき

「一致率の検定」にもちいられる統計量には以下のようなものがある.

  • Percent agreement 一致率
  • Percent positive agreement 陽性一致率
  • κ statistic κ統計量
  • weighted κ statistic 重み付けκ統計量

一致率とは

κ統計量などはよく論文に登場する.絶対値が大きければ意味があって,ゼロに近いとあまりよくないのかな程度の理解だったが,ここで今一度.
上記のような「一致率の検定」にもちいられる統計量は,その名の通り「一致」をみているわけだが,これはすなわち,ある対象検査の陽性(または陰性)結果が,ゴールドスタンダードの結果とどれくらい一致するか,というような意味である.
具体的には,「虫垂炎を疑うある身体所見が,CTによる検査結果とどれだけ一致するか」といった形で用いられる.
さらにメタに考えると,「一致率検定」は,"Indices of validity and reliability"のひとつであり,reliability(信頼性)の指標といえる.
Quality assurance and control > Indices of validity and reliability > agreement という関係である.

一致率検定のさまざま

一致率検定にもちいられる統計量を上に列記したが,それぞれの特長は簡単に書けば以下の通りである.
  • Percent agreement 一致率
    • 単純計算したもの.
  • Percent positive agreement 陽性一致率
    • さらに,prevalenceにより信頼性が落ちるのでそれを補正したもの.
  • κ statistic κ統計量
    • さらに,「偶然の一致」を除去したもの.
  • weighted κ statistic 重み付けκ統計量
    • カテゴリ数が2を越える時に使えるようにしたもの.
適当だけどざっくりとはこんな感じ.というか,それぞれについては詳しいサイトがあるのでそれらを参照するとよい.

各統計量の限界

結論としては,「有病率により値が変動する」「偶然の一致を勘案するかどうか」が問題となる.後者にかんしては,上記の通りκ統計量が導入されている.最も重視すべきは,前者の有病率にまつわる問題である.
κ統計量は,たとえその検査あるいは観察者が同質の判断を続けたとしても,有病率が高ければより高い値が出る.ゆえに,κ統計量を参照する場合は,当該集団の有病率を確認する必要があり,大きな差がある場合は統計量に由来する誤差が生じることを念頭におかねばならない.あるいは別の改善策として,Positive agreementのような他の統計量を併記する方法もある.
とはいえ,いずれにせよκ統計量は,一致率検定において有用な推定となりうる.有病率の問題を念頭において,うまく利用すれば有意義である.

8/3

模擬試験 提出

Cope's: pp. 114-140
acute panc. や、cholecystitisなど、臨床所見や経過などについて学んだ。pancは出血の可能性があり、出血性ショックを起こすこともあるらしい。これは胃十二指腸潰瘍穿孔の炎症性の体液が神経系を刺激し、神経源性ショックのようになり得ることと対象的。他にも血清および尿中のアミラーゼ、リパーゼなども検討する。胆嚢炎の症状としては胆嚢疝痛といわれるが、イメージかなり違うかんじですねえ。

Epidemiology: pp. 322-330

Mec小児科: 3, 4

『日本近代史』 pp. -50



2012年8月3日金曜日

今日はオープンキャンパス。

暑いが天気は良い。

オープンキャンパスで、高校生とその親と思しき人々がキャンパス内に多い。学部長や、偉い先生方のお話を聞きに行くのだそうだ。学生と交流をさせた方が、受験予定の本人としてはいいのじゃないだろうか。まあ、運動部入ろうぜの魔の手に絡め取られるのが関の山か。

模試を提出。マークミスはしないようにしたいが。結果は2-3週もすれば帰ってくるのだろうか。復習をしなければならない。予定を組まなければならない。

地元の市役所の方と連絡を取る。飲み会を設定し、後日会合をもつこととなった。地域医療政策なんかについても地検を深めておきたい。というより、実務を知る方が有益かも。

Twitterで思いを吐露するも、うまくいかなかったように思う。まあ、適当だったし。

8/2

模擬試験 TECOM #1 H,I ; 得点率は85%程

Cope's pp. -114

PALS pp. 159-183

『現代倫理学入門』終了; やはりロールズは読まないとどうしようも無い。それからバイオエシックス関連で、エンゲルハート他著『バイオエシックスの基礎』も読みたい。

2012年8月2日木曜日

幸せについて

幸せはいつでも,相対的なものである.
「これを幸せと思うかどうか」は,その時の自分次第で判断される.

ネット社会,というかソーシャル社会(同意反復)においては,人の幸せ,あるいはそう見做しているというポーズが,共有される.意図せず.
「あの人の,あんな幸せ」を目にするにつけ,自分の不幸が増大する.嫉妬が増大する.

これは極めて面倒であるし,LANケーブルを抜いてしまいたい人の気持ちはわかる.

残念,ここには無線LANがある.
わりと,逃れられない.防衛の手段を考えないと.

なすの下準備について

なすを素揚げするかどうかは悩む問題(主にカロリーの面)である.
ほとんど揚げたのと同じ感じになる方法が以下のレシピ.
本格的な味☆麻婆茄子
http://cookpad.com/recipe/26402
方法は簡単で,あらかじめなす2本程度を適当な大きさに切り,それらをボウルに入れて大匙1程のサラダ油をまぶしておく.そして馴染んだころ(時間は10分程度でよい),熱したフライパンに油を引かずに入れ,フタをして蒸らすように加熱するもの.

なすを加熱している間にいい香りがするし,味も殆ど問題ない.しっかり芯までしっとりするくらい,加熱してやるのがよい.

さすがBlogger

Chromeで書ける.はてなとは違うな.

2012年8月1日水曜日

『現代倫理学入門』より

久々に、もう一度読み始めようかと思って。

ちょうど、バイオエシックス界隈の話も出ていた。人格概念の規定は誰がどうやってやるのか。それって正直無理筋で、「厳密な人格」と「社会的な意味での人格」をわけて、それぞれのレベルの人格に求めるものを変化させる方法を取るしかない。後者は逃げ道みたいなもんだけど、それがないとエグい世界になる。

じゃあ、条件付き人格みたいなのを規定して、堕胎の問題に決着がつくかというと、全然そんなことはないわけで、迷宮入り感高いわけです。

 

昨日ー本日

「現代倫理学入門」: pp. 70-190

Cope's: pp. -101

Epidemiology: またかく

 

2012年7月31日火曜日

7/30(昨日)

Cope's: pp. 70-87

Epi: pp. 297-312

靖国神社参拝。今年は8/15は来れそうにない。毎年参拝しては、日本史勉強しなきゃと思う。神田から歩くと1時間弱はかかるので注意。

 

雑感

医療の費用対効果分析について考えた。必ずしも功利主義的に考えるということではなく、いろいろとexcuse付き。

希少な疾患を対象としない。
代替の治療法が存在するもののみを対象とする。
医療費削減効果の高いものを対象とする。
これくらいのexcuseは妥当と言えるしそうじゃないと医療の本来的な仕事じゃなくなる。とはいえ、こんな状態じゃ(あるいは、費用対効果分析って方法論じゃ)、医療費削減なんてできないんじゃないのという気がする。だから、そもそも論として「これって議論する意味あるの」って疑問が浮かんでくる。

ひとつには、相手になる医療費の規模がでかいこと。国民医療費は、その年度内で保険診療の範囲内で疾病の治療に要した費用の推計で、平成21年度だと35兆円弱、GDPの約8%にあたる。国庫負担分がだいたい9兆円強で、社会保障給付費の医療部門 31兆円弱の1/3くらい。まあすごい額だ。そんなものを切り崩そうとしたらもっと根本的な話をしなくちゃどうしようもなさそう。少なくとも保険診療分の焼き直しでは対応できなそうなのは間違いでしょう。

それから、「代替医療」というのがいまいちピンとこないこともある。生活習慣病の薬物治療とかだろうか。あるいは、抗がん化学療法などもありうるけど、そこに手を付けるのは政治的に難しいと思うんだけれどあるいは、患者の意思決定の参考資料になることはできる。費用対効果分析はむしろ、患者及び家族、国民が非対称性の強い医療サービスの客観評価を促進するかもしれない。

どうなんだろ、悩んでしまう。

 

例の妊婦の話

結局あの店主がブログにバカなことを書いて敗北というところだったのでしょう。

とはいえ妊婦の方はその私怨をはらすために、後付けでブログを開設、Twitterで広まってソーシャルリンチ完成という流れでした。

妊婦が居酒屋行くのは自由だが妊婦だから何でも許されると思うのは間違い

http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20120731/1343668744

自炊ヤーとしては、自分の食欲がない時に飯を作る苦しみはわかるので、外食はうまく使えばよいとおもうんですが、居酒屋みたいなどういう層の人間がいるかわからないところに行くのは感染症とか暴力に巻き込まれかねないという意味で個人的にはやめといたら、とおもうところであります。こういうのは言ってたらきりがないので、主治医と相談してねって感じだけど。

ま、お互いバカやったなあというところで。